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Tea Party 15


〜 Be My Sugar and Spice 〜





Be My Sugar and Spice


定休日のポアロで蘭と梓が会う約束をしたのには、理由がある。
事の発端は、先週のとある夕暮れ。

朝イチのシフトで夕方に仕事を終えた梓は、店主にお使いを頼まれた。
毛利家に回覧板を届けてほしい、というものだ。
いいですよと気軽に引き受け、その足で2階の探偵事務所を訪ねたが反応はない。
どうやら不在らしいので、続いて3階の毛利家に向かう。
階段を一歩、また一歩上っていくと、何やらいい匂いがしてきて踊り場で深く息を吸いこんだ。
甘くて、爽やかで、香ばしくて、幸せになれる香り。

(これは……パイを焼いているわね。でも林檎とは違うみたい?)

お菓子づくりでパイといえば、一番メジャーなのは林檎を使ったアップルパイ。
梓が違うと判断したのは、特徴的なシナモンの香りがしないから。
まれにシナモンを使わないレシピも見かけるが、林檎にはシナモンが定番。
林檎じゃなければ、カボチャ、サツマイモ、チェリー、カスタード……
いろんな材料を思い浮かべながら階段を上り、ついに毛利家の玄関にたどり着いた。
梓はもう一度深呼吸をしてみるが、思い浮かべた材料はどれもしっくりこない。
甘い香りだから、キッシュとか食事系のパイではないことはわかるけど、じゃあ何かと聞かれたら……うーんと首を捻ってしまう。
喫茶店の店員として調理と製菓の両方を手掛けているのに、わからないなんて。
とガックリきたところでしかたがない。
香りだけでは限界がある、と切り替えて梓はインターホンを押した。
ピンポーンと鳴り止まぬうちに「回覧をお持ちしました」と声を張る。
すぐに「はーい」と家の中から声がした。

「こんにちは、蘭ちゃん。はい、これ」
「ありがとうございます、梓さん」

蘭が玄関ドアを開けた瞬間、密度が増した甘い香りが一気に広がる。
梓は回覧板を渡しながら、たっぷりと息を吸った。

「んー、いい匂い」
「今、ちょうどパイを作ってたところなんです。梓さんは、もうお仕事終わったんですか?」
「そうなの。だから帰るついでにこれを託されちゃって」

喫茶ポアロの従業員は、常に店のロゴ入りエプロンを身に着けている。
夕方のこの時間に梓がエプロンなしの出で立ちで現れたということは、つまり仕事上がりというわけで。

「良かったら、少し寄っていかれませんか? もうすぐパイも焼き上がるんじゃないかなって……ほら、焼けた!」

オーブンの焼き上がりの合図が、部屋の奥、台所のほうから聞こえた。
ポアロからの出前を届けたことがあるから、毛利家の部屋割りは大体把握している。

「いいの?」
「もちろんです。お父さんはまだ帰ってきませんし、どうぞ遠慮なく上がってください」
「ありがとう、蘭ちゃん。お邪魔します」

蘭に促されて、断る理由が梓にはなかった。
この香り、そして蘭の手作りパイに興味津々で、遠慮なく上がり込む。
梓が即決したのには、もうひとつ理由がある。
このまま立ち話を続けて余熱でパイが焦げた、なんてことになったら取り返しがつかないからだ。
台所へ駆け込む直前、蘭は梓に「座っててくださいね」と微笑んだ。
まずはパイの焼き加減を確認するのだろう。
玄関から続く居間に通された梓は、所在なく立ち尽くす。
梓が蘭を訪ねることは滅多になく、3階まで上がってきても大抵の用事は玄関先で済んでしまう。
だから家の中に上がったことはなかった。

蘭と梓との付き合いは、客と店員という関係だがそれなりに長い。
いつもは蘭がポアロに来店して、仕事の合間に梓とお喋りの花を咲かせている。
ただしその内容は、家事の情報交換がメイン。
主婦歴十年以上の蘭と一人暮らしで自炊派の梓の組み合わせでは、一番盛り上がるのは料理の話題。
蘭の親友の園子が加わると、もっとキラキラした女子トークに発展して、ファッションや映画、ときには恋バナが披露されることも。
恋バナについては、梓はもっぱら彼氏持ちの2人の話の聞き役だ。
世捨て人になったつもりはないが、自分自身の浮いた話にはすっかりご無沙汰している。年上らしい気の利いたアドバイスを求められたとしても、申し訳なくなるくらいに何も浮かばない。
梓にできるのは、雲行きが怪しくなる前に―梓自身の恋バナに水を向けられないように上手く逃げるだけ。
だって、話すことなんて本当に何もない。
仕事に没頭している姿を見せれば、彼女達は自然と別のお喋りの種を見つけてはその花を咲かせていく。
ほんの数年前までは梓も制服を着ていたのに、もうすっかり遠い昔の出来事のようだ。
活気にあふれた現役JKの笑顔には、どこか懐かしさを覚えてしまう。
好きな人のことを話すときの、あのキラキラした笑顔なんかは、特に。
6歳も年の差があるからなのか、それとも高校生特有のものなのか、よくわからないけど。
そういえば、かつて一緒に働いていた同僚はちょうど6歳年上だった。
彼の目には、梓のこともこんなふうに映っていたのだろうか。
こちらが先輩だったのに逆にフォローされてばかりだったのは、いわゆる年の功?
だけど梓からは、蘭や園子に対して年上らしいアドバイスなど一つもしてあげられない。実年齢と恋愛年齢は残念ながらイコールじゃないのよねぇ、と食器を洗いながら洗剤の泡の中に溜め息を落とす日々を送っている。

小学生の頃から毛利家の台所を取り仕切ってきた蘭は、梓と6歳の差を感じさせないくらいのしっかり者だ。
元から美少女だったが、最近特に綺麗になった。
理由は簡単……恋人の存在。
転校生の世良を加えた仲良しJK3人組が、しばらくの間不在にしていた彼が戻ってきた、とポアロでテーブルを囲んでコーヒーで祝杯を挙げていた。
相手は梓も知っている、蘭の幼馴染みで同級生の工藤新一。
両親揃って有名人で、本人も高校生探偵として有名だ。
新一と蘭が並び立つと、どこぞの国の王子様とお姫様みたい。
ときどきポアロにやって来る2人を見ると、お似合いすぎて見とれてしまう。

蘭はポアロをデートの待ち合わせ場所に使うことが多い。
店員としては有り難いが、どうやら父親の小五郎からは新一との交際をあまりよく思われていないらしい。多分、小五郎は新一のことを「可愛い一人娘をさらっていく悪者」とでも位置づけているのだろう。
赤の他人の梓から見ても、わからなくもない。
だって蘭は人気のアイドルだって霞んでしまうくらい、とにかく可愛いしスタイル抜群。
おまけに優しくて思いやりがあって、痛みを抱えた人にはそっと手を差し伸べる。
華奢な見た目に反して空手の有段者で、腕っ節が強いのにオバケが恐いと震える一面もあって、アンバランスなところも魅力的。
そのうえ家事全般が得意で、まさに言うことなし。
そんな蘭の隣に立つならば、それこそ工藤新一クラスのハイスペックイケメンでなければ務まらない。

でも、本当は照れくさいだけなんじゃないか、と梓は思う。
もしも小五郎が本気で蘭と新一のお付き合いを認めないのなら、まず、蘭をポアロには行かせない。
ポアロの真上にある探偵事務所からは、新一がやってくるのは丸見えだから、2人が落ち合うのを阻止するのは簡単。
けれどもそこまでの妨害はしないのは、少なからず2人のことを認める気持ちもあるのだろう。
これは所謂ツンデレ?
あるいは早くも「嫁入り前の父親」の心情に浸っているのかもしれない。

……なんて、ね。
梓が勝手に幸せな妄想をしてしまうのは、それなりに根拠がある。
ポアロでの待ち合わせの際、どちらが先に来店していても、蘭は新一が来た瞬間に幸せオーラに包まれる。
色が見えるとしたら、ふわっふわの淡いピンク。
笑顔の中に見え隠れしていた寂しさは、もう綺麗に消えている。
「良かったね、蘭ちゃん」と心の中で声援を送りながら、梓は仕事に勤しむのだ。

かつて同居していた小さな男の子が両親の元に戻った後、目に見えて蘭は落ち込んでいた。
ふと視線を下げて、ハッと何かに気付いたように顔を上げる仕草を何度も見掛けた。
梓にも少し分かるような気がするのは、同じ頃にポアロを去った同僚のことを思い出すとき。
カウンターの中、振り向いた斜め上を視線が空振りすることが今でもときどきある。
その都度、バカだなぁ、と自分で自分に苦笑するのだ。
でも、蘭の場合は家族同然に暮らしていた存在が失われたわけだから、単なる仕事仲間を送り出しただけの梓とは比べ物にならない喪失感を抱えているのだろう。
吐き出しちゃえば、少しは楽になれるのかも?
梓のほうが6歳も年上で、どこにでもいる喫茶店の店員でしかないけれど、逆にそれくらいの関係のほうが話の聞き役にしやすいかもしれない。
そう思って「大丈夫?」と声を掛ければ、蘭は必ず「大丈夫です」と答える。
けれどもその笑顔は泣き笑いのようで、他に掛けるべき言葉が何も浮かばない。
梓にできるのは、一瞬でも温かい気持ちになってもらえるように、心を込めてコーヒーを淹れることだけ。


それにしても、初めての場所というのはどことなく緊張するものだ。
毛利家の居間の中央、食卓の前で立ち尽くした梓は、年甲斐もなく少しそわそわしてしまう。
とりあえず荷物を壁際の邪魔にならないところに置き、その上に畳んだジャケットを重ねた。
座っててと言われたものの、じっとしているのは性に合わない。

「蘭ちゃん、何か手伝うことってある?」
「特には……あ、じゃあこれカットしてもらっても良いですか?」

梓が声を掛けると、蘭は出来立てのパイを居間に運んできた。
トレーには包丁と2人分の皿、フォーク、ナイフが添えてある。
表面はパイ生地を交互に編んであって、外見だけだと典型的なアップルパイのようだ。

「わぁ、美味しそう! 焼き立てのパイの香りって幸せを感じるよねぇ」
「ですよね。温め直してもいいんだけど、やっぱり焼き立てには適わないっていうか」
「うんうん、わかる!」
「わたし、窓を開けているときにポアロからいい匂いがしてきたら、つい深呼吸しちゃうんですよ」
「実は私も、さっきドアの前で深呼吸しちゃった」
「梓さんも?」

そうなのよ、と照れ笑いする梓は食卓に置かれたパイをじっくり見つめた。
目の前に座り、深く香りを吸い込む。

「これってアップルパイじゃないよね?」
「わかります?」
「シナモンの香りがしないから、そうなのかなぁって」
「正解です」
「ねぇ、早速切ってみてもいい? 私、さっきから何のパイなのか気になってて」
「どうぞ。普通の包丁しかないから、切りにくいかもしれませんけど」
「大丈夫。ポアロならともかく、家では私も同じだから」

では参ります、と包丁を構えた梓が、ザク、ザクッとパイに包丁を入れていく。
まずは半分にカットした。
切れ目から中身が見えて、梓はやっとこのパイの正体を知ることができた。

「えーっと、これってレモン?」
「はい、レモンパイです」
「そうなんだ。レモンをパイ生地に入れるのって、あまり聞いたことないかも。メレンゲを乗せたタルトなんかはよく見るんだけど」
「これ、中学の先輩に教わったレシピを元に作ってるんです。新一の好物だからって言われて、それで……」
「一生懸命覚えたのね! いやーん、蘭ちゃんカワイイ」

最後はもごもごと不明瞭になった言葉を、梓はしっかりはっきりと復唱した。
わぁぁ、と顔を赤くする蘭は今まで見たことのないほど頬を染め上げている。
世間一般の女子高生像と比べても、なんと初々しいことか。

「ごめん、ごめん。からかうつもりとかじゃなくて、蘭ちゃんが素敵な恋をしてるんだなと思ったら、なんだか私まで舞い上がっちゃった」
「素敵かどうかなんて、自分ではよくわかんないです……他と比べようもないし」
「あら、そこは自信持っていいんじゃない? 新一君と蘭ちゃん、とってもお似合いだもの」

私が太鼓判を押しちゃうから、と続けると蘭は控えめに微笑んだ。
もっと掘り下げて話を聞いてみたいところだけど、そこまで踏み込むなんて梓の立場からは度が過ぎている。
包丁を持つ手にやや力を込めて、与えられたミッションを粛々とこなす方に専念した。
ザク、ザク、ザク。
少し大きめになるけれど、ここは包丁でも切り分けやすい8等分で勘弁してもらおう。

「よーし、切り分け完了!」
「ありがとうございます。でも、梓さんみたいな達人に食べてもらうなんて、なんだか緊張しちゃう」
「達人ってそんな、私なんてまだまだよ。趣味の延長線上っていうか」
「そんなことないです。わたし、梓さんの手作りケーキ大好き。もちろんお料理も」
「んもう、蘭ちゃんってば誉め上手なんだから」

面と向かって誉められて、今度はパイを皿に取り分ける梓が頬を染める番だった。
その間に、蘭は紅茶を運んできた。
白いカップに、透き通った明るい水色(すいしょく)が映える。
スティックシュガーと丸みのあるミルクピッチャーも添えてあるが、パイのお供にするならストレートで味わうのが良さそうだ。
食卓に2人分のパイと紅茶が揃ったところで、梓はいただきますと両手を合わせた。

一口大にカットしたパイを頬張り、まずはサックリと焼き上がった生地の食感を楽しむ。
続いて中に詰められたレモンのフィリングを味わう。
レモンを皮のままスライスして甘く煮詰めたものと、その下にクリームが入っていた。
皮の食感と少しビターな風味がいいアクセントになっている。
クリームには爽やかな酸味があって、きっとこれはレモンクリームだ。

じっくり味わいながら食べていたから、つい無言になってしまった。
目の前では蘭が少し不安そうな顔でパイをつついている。
……ああ、やってしまった。
喫茶店店員としての職業病というか、自分以外の人が作った物を食べるときは、ついあれこれと分析しながらになってしまうのだ。
一旦フォークを置き、背筋を正して梓は蘭に向き合った。

「私、レモンパイって初めて食べたんだけどね。これ、すっごく美味しいよ、蘭ちゃん」
「ほ、本当に?」
「レモン風味が爽やかだし甘さ控えめだから、男性でも食べやすいかも。私も作ってみたいなぁ」
「わたしは梓さんのアップルパイを作ってみたいです。林檎のフィリングがとっても美味しくって」
「じゃあ、お互いに教え合いしちゃう?」
「いいんですか? ポアロのレシピって門外不出だったりしません?」
「心配いらないわ、私の独自レシピだから」

――というわけで。
本日、蘭と梓はお互いにパイ作りを教え合うこととなったのである。



〜〜♪

蘭は鼻歌交じりに新一の家を目指していた。
みんなの感想教えてね、もちろんです、と約束して解散した本日のパイづくり教室は無事に終了。
左手に下げた紙袋には、持ち帰り用のケーキボックスが2個。
箱の中には梓と半分ずつ交換した、焼き立てのパイが2種類入っている。
新一と蘭、そして隣に住む阿笠博士と同居人の志保への差し入れを合わせると、2種類×4人分で計8切れ。
繋げれば1ホールになる分量を、分けやすいようにと梓が別々の箱に入れてくれた。
最後まで気を利かせてくれた梓に感謝しながら、揺らさないように慎重に歩く。

「今から行くからね」と新一に電話をしたら、少し眠そうな声だった。
また夜遅くまで推理小説を読みふけってたんでしょ、といつもどおりに小言が出そうになったけど、今日は知らない振りをしておこう。
新しく習ったパイを、少しでも早く新一に食べてもらいたいから。




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