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Tea Party 16


〜 Two of a Kind 〜






米花町五丁目には名所がふたつある。
ひとつは喫茶ポアロ。
その名の通りの喫茶店で、薫り高いコーヒーと洋食を中心とした食事、スウィーツまで幅広く楽しめるメニュー、どこか懐かしい雰囲気を兼ね備えた憩いの場である。
もうひとつは毛利探偵事務所。
日本屈指の名探偵、眠りの小五郎として名を馳せる毛利小五郎の拠点。
かつて警視庁捜査一課の刑事だった小五郎は、とある事情で退職した後に私立探偵を生業に選んだ。
そんな彼が構える個人事務所にこそこそと、あるいは重々しい足取りでここを訪ねるのは彼に何らかの依頼を持ちかける人々で、厳しい表情を張り付けた連中ならば彼の力を借りにきた元・古巣からの使者――刑事たちだ。
ここ最近、小五郎に舞い込む依頼はもっぱら前者が多い。
後者からの依頼が目に見えて激減したのは、ここが米花町だから、としか言いようがない。
理由はさておき、小五郎は事務所を喫茶ポアロの真上に置き、さらにその上を住居として一人娘の蘭と一緒に暮らしている。
つまり、ふたつの名所は同じ場所に立地しているのであった。



十一月にもなると、日毎に日没が早まっていく。
あっという間に夜の闇が忍び寄り、夕方五時には街灯が点る。
都心の米花町には建物や家、店舗の照明が溢れていて、行く手もわからないほどの闇に包まれることはないのだけれど。

――カランカラン。

懐かしささえ覚えるような、今時珍しいドアベルの音が閉店後のポアロの店内に響き渡る。
入口から正々堂々と店内に入り込んだ人物を、看板娘は緊張感のない声で「いらっしゃい」と出迎えた。
カウンターの中、箒の柄に添えた手を動かしながら。

「こんばんは、梓さん。すみません、こんな時間に」
「こちらこそ忙しいのに無理言ってごめんなさい」
「謝らないでください。梓さんのためならお安い御用です」
「ふふ、ありがとう。キッチンの掃除、もう少しかかちゃうの。終わるまでソファ席で待っててくれる?」
「はい。あ、何かお手伝いしましょうか?」
「大丈夫よ、もうほとんど終わりだから」
「わかりました」

ぺこりと頭を下げた来訪者は、随分とカジュアルな装いで現れた。
細身のジーンズにシャツ、その上には暖かそうなフード付きのハーフコート。
黒縁の眼鏡の奥から覗く、印象的な切れ長の瞳に端整な顔立ち。
実年齢に比べて随分と大人びた雰囲気の持ち主の名は――米花町に住むもう一人の若き探偵、工藤新一。
毛利探偵事務所への依頼が減った原因であり、上階に住む蘭の恋人でもある。
新一と蘭は「ただの幼馴染み」と言い張っていた頃から距離感が近くて、それはお付き合いを始めてからも変わらない。
ただ、正式に恋人のポジションに就いたことで、二人の間に流れる空気は確実に変わった。
少なくとも梓の目にはそのように映っている。


ここ最近、新一の来店回数は激増した。
理由はいたって簡単。
不定期にポアロでバイトするようになった蘭のことが、心配でたまらないのだろう。
蘭が働いているのは主に平日の夕方から夜、週末の空き時間。
空手の都大会で鮮やかに三連覇を決めて部活を引退した蘭は、放課後の空き時間をそのままアルバイトに回すことができる、というわけだ。
新一はというと、蘭がいるときは皆勤賞に近い割合で来店している。
不在なのは事件で呼び出されたときだけで、それでもちょっとした隙を見計らっては蘭にメッセージを送ってくるらしい。
変な客はいないか、困ったことはないか、必要なものはないか、差し入れは何がいいか……などなど。
客足が引いたとき、蘭は梓に断りを入れてからメッセージを確認する。
新一に買ってもらったから、と蘭はいまだに二つ折りの旧式な携帯電話を愛用していて、メッセージを読み終えてパタンとそれを閉じたときに見せる横顔は、眩しいくらいに光り輝いている。
梓は思わず「大事に思われてるのね」と耳打ちした。
蘭は瞬時に染まった頬を両手で包み、「子供扱いされてるだけです」なんて否定するけれど、その言葉とは裏腹に全身から喜びがあふれていた。

……恋する女の子って、本当にきらきらしているんだなぁ。

蘭のことを妹のように感じている梓でさえ、思わず吸い寄せられそうになる。
並みのアイドルも白旗を上げるほどの容姿で武道の達人、そのギャップもまた彼女の魅力のひとつ。
おまけに内面、つまり性格もすこぶる良くて。
本当は背中に大きな白い羽を隠し持ってるんじゃないの?
そんな夢みたいなことを真剣に考えてしまうほど、蘭は魅力的な女の子。

地元から東京に出てきた梓が蘭と出会ったのは、ポアロでバイトを始めてからのこと。
だから直接知っているのはここ数年しかないけれど、古くから彼女を知っている常連客は皆、口を揃えて言う。
幼い頃から米花町で一番の美少女と言われていた蘭が、最近ますます可愛く、きれいになったと。
理由はただひとつ、長らく家を空けていた新一が帰ってきたこと。
そんな確信を梓が持てるのは、彼女の輝きが最も増すのは新一の話をするときだからだ。
たとえば、事件に恋人を取られて空いてしまった週末の午後とか、無茶をしがちな彼が眠そうに欠伸をしたときだって。
大粒の瞳に心配の色を浮かべながらも、その表情は信頼に満ちていて。
どんな大嵐が来ても揺らぐことのない、強い絆のようなものを感じることがある。
まだ十代の女子高生なのに、一体どれほどの障壁を乗り越えてきたのだろう。
ポアロにもよく顔を出してくれる同級生、園子や世良も只者ではないが、そんな二人と比べても群を抜いて大人びている。
一方の新一とは、蘭ほどの長い付き合いはない。
けれども、彼がポアロで見せるわかりやすい牽制は、六歳年上の梓の目にはむしろ微笑ましく映るだけ。
米花町界隈の住人なら誰でも、新一と蘭がお似合いのカップルだと知っているのに。

蘭と梓の会話に欠かさず登場する新一は、蘭とは違って受験を控えた身であるはずなのに、少しもそれらしい様子が見られない。
ポアロで過ごすときは単行本を片手にカウンターに陣取り、活字を追いつつ蘭の仕事ぶりをその目に納めている。
あるいは蘭に向けられる視線を、蘭自身が気付かないうちに遮断したり、無言で威嚇したり、と水面下では忙しく過ごしている。
梓から見ても、蘭は他人の痛みに敏感だ。
そっと察知して寄り添うこともできる。
だけど何故か、蘭自身に向けられる好意には見事に気付かない。
この点も新一にとっては気苦労のひとつなのだろう。
とにかく蘭から視線を外さず、それでいて本の内容はきちんと頭に入っているのだから、梓のような一般人からすれば頭の出来が違うとしか言いようがない。
彼に対する素直な感想を仕事中の雑談に交えて蘭に伝えたら、蘭も苦笑いで同感ですと答えた。
一番近しい蘭でさえそう思うのだから、梓が受け取った新一に対する評価もあながち見当違いではないはずだ。





体が覚えているから、頭の中であれこれ思い浮かべながらでも掃除は着々と進む。
あとは水回りを拭いたらおしまい、というところまでたどり着いた。
カウンター越し、梓の正面のソファ席にいる高校生探偵は、ポアロではなくホームズを心酔するシャーロキアン。
外した眼鏡を胸元に引っかけて、脱いだコートのポケットから取り出した文庫本を広げている。
緩く足を組み、速いテンポでページをめくっていく。

このまま石像にでもなったら、有名な美術館に展示されるかも。
女性誌の表紙を飾ったら、あっという間に売り切れ続出しそう。

ごく平凡な喫茶店店員、梓の客観的な目で見れば、やはり新一も人目を引くほど整った容姿を持っている。
「も」と付けたのは、かつてポアロにも規格外の容姿を持った同僚がいたから。
そのせいで梓の審美眼が若干ズレてしまったことは否めないが、新一と蘭の組み合わせは言葉どおりの美男美女。
蘭と一緒にいるときの新一は、世間一般に知られている高校生探偵のイメージとは程遠く、ごく普通の高校生という感じがする。
でも、彼女がいなければ、どこか近寄りがたい雰囲気をまとうこともできるようだ。
本を読むスピードも全然違う。
周囲に気を回す必要がないからか、ちょっとあり得ないほど速い。
尋常じゃないそのスピードに視線を奪われた梓と、おもむろに顔を上げた新一の視線がぶつかり、看板娘は思わず唇をほころばせた。

「梓さん、今日は何かいいことでもありました?」
「ちがうの。新一くんの眼鏡姿を見るとね、つい思い出しちゃって」
「思い出すって何を?」
「少し前まで蘭ちゃんの家にいた男の子のこと。その子も似たような眼鏡を掛けててね、似てるなぁって思ってたの。確か新一くんの遠縁の子なのよね?」

前に蘭ちゃんから聞いたことがあるわ、と梓は言う。
新一はひゅっと小さく息を飲むと、ええまぁ、と語尾を濁した。

あの小さな探偵がこの街から姿を消して、早数ヶ月。
つまり新一がこの街に帰ってきてから、同じだけの月日が流れていることになる。
それでもときどき、こうして話題の端々にあの少年が登場するから、新一としては気を抜けない。
海外の両親の元へ行くことになった、という設定を崩してはならないから。

「まだ小学一年生なのに、びっくりするくらい物知りな子だったのよ。それも新一くんの影響かしらね」

新一としては、ただただ複雑でしかなかった。
あれは組織から身を隠すための、いわば世を忍ぶ仮の姿。
表舞台に上がってはならない存在だったのに、この街に、人々の記憶に残りすぎた。
新一が特殊な状況に追い込まれたのは、事件に首を突っ込まないではいられない己の性格が災いしたからで、小さくなってもそこは変わらず「お手柄小学生」として紙面を飾ったことも数知れない。
自己反省する気持ちと、覚えていてくれて嬉しいという気持ち。
相容れない感情が新一の中でせめぎ合う。
謎解きの際はいくらでも滑らかに回る舌が、少しも動かない。
何も言えないでいると梓は笑顔で言葉をつないでいく。

「新一くんのこと、憧れのお兄さんだと思ってるんじゃないかな」
「とんでもない、僕なんてまだまだ未熟者です」

自戒もこめて、新一は苦笑混じりに返した。
高校生探偵として注目されるようになり、難事件を解き明かす快感に溺れ、思い上がった結果、生まれたのが江戸川コナンという架空の人物。
新一がコナンとして、あの日々から学んだことは大きい。
この先、探偵として生きていく上での根幹になる貴重な体験、出会いを得られた。
いくつかの別れもあったけれど、変えられない過去を悔やみ続けるよりも、未来への教訓として受け止めて次に生かす。
それが今を生きる新一にできることだと思うから。

「新一くん、お待たせ。こちらにどうぞ」

掃除を終えた梓は、新一の定位置、カウンター席にお冷やとおしぼりを用意した。
新一は文庫本をコートのポケットにねじ込み、コートと宅からぶら下げてきた紙袋を隣の空席に置く。
いつもの席で軽く喉を潤してから、新一はやや固い声で提言する。

「勝手に入ってきたオレが言うのも変ですけど、鍵、閉めといたほうがいいですよ。危ないので」
「大丈夫よ。それに勝手にって訳じゃないわ、新一くんとは約束してたもの」
「確かに約束はしてました。でも、不用心すぎるっていうか」
「やあねぇ、もちろんいつもはちゃんと鍵閉めてるのよ。でも、今日は新一くんが来るってわかってたから」
「それでも、です。何かあったらオレが怒られるので」
「蘭ちゃんに? ふふ、ありがとうね」
「……まぁそんなところです」

何かをそっと包み隠すような返事をして、新一は曖昧に笑った。
コーヒー淹れるから座ってて、と梓は掃除が終わったばかりのカウンターに器具を取り出す。
片付けたばかりなのに申し訳ないと思ったものの、ここで下手に遠慮すれば、逆に梓は気をつかってしまう。
素直に従って、大人しく梓の厚意に感謝するほうを選んだ。
新一とこの店との付き合いは、店主や看板娘が思うよりも長い。
半分以上の期間はこの姿ではなかったが、彼女の機敏が察知できる程度には馴染みが深かった。
そして、閉店時間後に新一がポアロを訪ねてきたのは言葉通りの意味で、梓のためだった。
もっと正確に言うと、梓のためになりたい蘭のため、である。
この場にいない大切な人のことを思って、新一はそっと目を閉じ、漂い始めたコーヒーの香りを吸い込んだ。


***


「蘭ちゃんが来てくれて、すごく助かってるの。一緒に働けて嬉しい」
「アイツもポアロで働くの楽しいって言ってます」
「良かった。じゃあ、ポアロの看板娘の座は蘭ちゃんに譲って、世代交代しちゃおうかなー」
「ダメですよ。ここには梓さんがいてくれなきゃ困ります」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね」
「本当ですよ。梓さんの特製パスタ、刑事さんたちの間で大評判なんですから」
「最近、蘭ちゃん目当てのお客さんも多いわよ?」
「え、それはっ」
「大丈夫よ。新一くんがいないときは、私がしっかりガードしてるから」

新一と梓の共通項といえば、蘭のことだけ。
自ずと話題は蘭の話が中心になる。

梓の目から見ても、ポアロでの蘭の仕事ぶりは、文句の付けようのないほど完璧だった。
毛利家の家事を取り仕切って十年以上のキャリアは伊達じゃない。
ポアロのレシピに慣れてもらう必要はあるが、蘭の料理の腕自体は最初から何の心配もしていなかった。
ただし、コーヒーを淹れるのは少しコツがいるので、ここは店主と梓の出番。
手先が器用で勘もいい蘭のことだから、あと何回か練習すれば客に提供できるレベルに達するだろうと梓は思っている。
きっと本番デビューする日も近いだろう。


元々コーヒー好きな梓は、学生の頃から喫茶店や専門店を巡るのも好きだった。
そんななかでポアロの噂を聞きつけ、いそいそと出掛けてみた。
個人経営のこぢんまりとした店は飾らないシンプルな造りで、それだけに味で勝負していることが伺える。
事実、店長の淹れるコーヒーは絶品だった。
おまけにコーヒーと一緒に提供される軽食も絶品で、その香りと味に惚れ込んだ梓はここで働くことを選んだのだ。
その店長自ら教えてくれた作法すべてを頭と身体に叩き込み、実務をこなしながらコーヒーに関する知識と技を磨いてきた。
ある程度の技量が身についてくると、次に望むのはステップアップ。
もっとたくさんの人にポアロに来てもらうためには、どうしたらいいんだろう?
……今のポアロと自分自身に足りない物って何だろう?
仕事熱心な梓はメニューを見ながら首を捻り、ふと気が付いた。

そこで迎えたのが今日。
新一が持ってきた紙袋に、その解決方法の一端が詰まっていた。

「結構な大荷物になっちゃったわね?」
「入れ物がかさばってるだけですから、見た目ほど重くはないんですよ」
「そうなの? やっぱりいろいろ違うんだねぇ」
「ここに並べてもいいですか?」
「うん。お願い」

梓がコーヒーを淹れている間、新一はカウンターの上に、持参した紙袋の中身を一つずつ取り出していく。
サイズやデザインが異なる、色とりどりの缶が十数個。
普段は工藤家のキャビネットに収まっている紅茶のキャニスターが一列に並べられた。

「……すごい、こんなにあるんだ」
「とりあえずリーフティだけ持ってきました。ティーバッグも含めたらもっと種類ありますけど、そこは割愛ってことで」

梓はコーヒーにお湯を注ぎながら、視線はちらちらとキャニスターに向けている。
丸い額には興味津々の文字が浮かぶ。
近所のスーパーでもよく見かけるメーカーのロゴマークにホッとしたり、輸入品とおぼしき凝ったデザインの缶にときめいたり。
店の片隅に飾っておくだけでも、お洒落なインテリアになりそうだ。
どうぞ、と淹れたてのコーヒーを差し出して、そのまま梓は器具を洗い始めた。

「新一くんって紅茶よりコーヒー派だと思ってたけど、紅茶もよく飲むの?」
「ええ、まぁ。オレはどちらかというとコーヒー派ですけどね」

……なるほど、蘭ちゃんのためか。
あえて口にしなかったと思われる新一の言葉の、その続きは梓にも容易に想像が付く。
長いこと幼馴染みの関係だった新一と蘭が、一歩進んだのは修学旅行先のことだという。
情報源は現場にいた園子と世良なので、間違いない。
清水寺での二人のエピソードを聞いたとき、梓は自らの高校時代を思い出して甘酸っぱい気持ちにはなったけれど、少しも驚くことはなかった。
なにしろ「ただの幼馴染み」と思っていたのは、当の本人たちだけだったから。

新一は優雅な手つきで持ち上げたコーヒーカップを鼻先に近づけ、まずは豊かな香りを楽しみ、続いてそっと口を付ける。
はー美味しい、とごく自然に呟かれた言葉は、梓にとってのご褒美。
次も美味しいと言ってもらえるように頑張ろう、という力になる。
でも、ここで満足していてはダメだ。
もっともっと成長するために、協力してもらっているのだから。



――事の発端は、梓と蘭との雑談の中にあった。
ハムサンドや半熟ケーキといったメニューがすでに定番化している昨今、ポアロにも次の目玉となる新メニューがほしいなぁ、という会話から話は膨らんだ。
メニューをじっと見入っていた蘭が、ふと呟いたのだ――ポアロって紅茶はないんですね、と。

「それだわ! ありがとう蘭ちゃん」
「え? わたし、何かしました?」
「だから、紅茶よ。このポアロはコーヒー専門店だし、マスターのコーヒーは天下一品だと思ってるけど、紅茶が全然ないっていうのも寂しいじゃない? コーヒー苦手な人だっているだろうし」
「わたしはどっちも好きですけど、自分で淹れるのは紅茶のほうが多いかも。日替わりで楽しんだりとか」
「コーヒーだって産地や焙煎で味が全然違ってくるんだから、紅茶もいろいろあるよねぇ」
「はい。大きく分けるとインド、スリランカ、中国が三大産地ですけど、東南アジアとかアフリカなんかでも紅茶を作ってるところがあるんですよ」

なるほど、と力強く頷いた梓はポケットからスマートフォンを取り出した。
紅茶、産地、と呟きながら画面を数回タップする。

「……んー、ものすごく奥が深そう。私、今までコーヒーのことばかり考えてきたから、紅茶のことは全然知らなくって。蘭ちゃん、紅茶に詳しいのね」
「わたしじゃなくて、新一が詳しいんです。ご両親も紅茶をよく飲まれるので」
「わぁ、それ何となく想像できちゃう。すっごく豪華なティーセットとかありそう」
「そのとおり! 家に遊びに行くと、おばさまが素敵なティーセットで紅茶を淹れてくれて。それでわたしも何となく覚えたっていうか」
「そっか。じゃあ、まずは私自身がもっと紅茶に親しまないとね。片っ端から飲んでみるのが早いかなぁ?」
「飲み比べですか? それならいいアイデアがありますよ!」

――というわけで、蘭から新一へと連絡が入った。
ポアロで紅茶の研究をするから力を貸してほしい、という依頼である。
新一が蘭の頼みを断るわけもなく、自宅のキッチンでかき集めた紅茶を携え閉店後のポアロへやって来たのだった。


ごちそうさまでした、と空になったカップをカウンターに置いたとき、新一のスマートフォンが震えた。
ポケットから取り出すと、メールの受信を告げるアイコンと名前が表示されている。
それを目に留めただけで緩んでしまう頬を無理矢理引き締めて、さっと中身を確認した。
待ちわびていた情報が手に入り、思わず安堵の溜め息がこぼれてしまう。
それを丁寧に拾い上げた梓は遠慮がちに尋ねた。

「もしかして蘭ちゃんから? 大丈夫?」
「はい。明日は学校にも行けるのでご心配なく、って。これ、蘭からの伝言です」
「良かったぁ。最初は気のせいかもって思ったんだけど、なんだか気になっちゃって。新一くんにも迷惑かけちゃったかな?」
「迷惑なんてとんでもない。逆に梓さんが連絡してくれて助かりましたよ。アイツ、自分でも気付かないうちに無茶するところがあるから」

ありがとうございます、と新一は丁寧にお礼を述べた。
今宵、蘭の思いつきで開催されることになった、紅茶飲み比べ大会。
その発案者は今、二つ上の階――自宅の自室で横になっている。
珍しく風邪をこじらせて発熱してしまったのだ。
最初に蘭の異変に気が付いたのは梓だった。
調理も接客も難なくこなしているのに、何となくいつもと様子が違う。
具体的にどこがどうというわけではなくて、第六感が働いたとしか言えない。
けれども梓自身、この手の勘は結構当たると自負している。
少し前までここで働いていた、もう一人の店員は何故か怪我の多い人で、しかもその怪我を隠そうとするから、梓は少しでも不調のサインを見逃さないように気を配るようになっていった。
おかげで病気や怪我を察知するスキルは随分鍛えられたものだ。
かくして梓の第六感は見事に的中し、今、新一が蘭の名代としてポアロにいる。

コーヒー器具一式を片付けて空いたスペースに、梓は小さな紙箱を取り出した。
中身は先行投資で調達してきた一人用のティーポット。
ポアロにあるのは、コーヒーサイフォンにお湯を注ぐためのポットがひとつ。
飲み比べをするならもう一つ、できれば紅茶専用のポットが欲しい。
蘭にも相談した結果、一人分をみんなで分け合うことにした。
通常の一人分はティーカップに約二杯半、新一を加えた三人でも問題ない。
蘭からは「試飲するだけなら手持ちの急須でも大丈夫」と言われたが、梓は「どうせやるなら本格的に」と気合い十分で買い物に出掛けたのだった。
ちなみに「新一にティーセットも提供してもらいましょうか?」という蘭の提案は、丁重にお断りした。
とんでもないお値段の代物を持って来られて、万一、割ったりしたら困る。
冷や汗をかきつつ遠慮する梓に対して、新調するなら、と蘭を介して新一が授けたアドバイスは次の通り。

丸みのある形で内部の注ぎ口部分に茶こしが付いておらず、ガラスよりも保温性が高い陶器、できれば紅茶の色がわかりやすい白色で。

箱から取り出したポットを新一の目の前に置き、梓はやや緊張した面持ちで評価を待つ。
相手は六歳も年下の男の子。
でも、日本屈指の名探偵で、今日は梓の先生でもある。
タレ目がちで実年齢よりも幼く見られる梓とは正反対の、涼やかな印象の目元はとても高校生だとは思えない。
新一は両手でティーポットを持ち上げ、蓋を開けて中をのぞき込んだりしている。
その薄く理知的な唇からどんな批評が飛び出すのか、不安と沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは梓のほうだった。

「……どうかな?」
「いい買い物をしましたね。サイズも手頃だし、茶葉のジャンピングも十分できそうです」
「ジャンピングって、お湯の中で茶葉がくるくる回ることよね?」
「そうです。ガラスのティーポットのほうが茶葉の様子が見えてわかりやすいんですけど、冷めやすいからお勧めしません。紅茶は熱い状態を保つことが重要なので」

新一に何かを教わるのは今日が初めてだが、梓も事前にできる範囲で紅茶に関する知識を仕入れ、この場に挑んでいる。
その片鱗を垣間見た新一は、年上の生徒の努力に小さく頷いた。
元々の予定では、新一は茶葉を提供するだけの予定だった。
しかし、急病の蘭に変わってレクチャーまで担当することになり、関係各所への調整に奔走した。
一日も早く新メニューの導入に踏み切りたい、そんな看板娘のひたむきな情熱に、新一も応えたくなったのだ。
そして、自分だけの宝物のためにも。

蘭はきっと、今日の約束が反故になることを望んでいない。
梓の役に立てないことを残念に思って、きっと表情を曇らせる。
そんなのは嫌だ。
蘭にはいつも笑顔でいてほしい、新一の願いはただそれだけ。


***


「ところで、どの茶葉にするか決めたんですか?」
「うーんとねぇ、じゃあ、これにしようかな」

梓が手にしたのはルフナの茶葉で、選んだ理由は「名前が可愛いから」。
ふ、と新一の瞳に優しい光が灯る。

「蘭は缶のデザインとかで決めることが多いんですけど、梓さんは名前が気になるタイプなんですね」
「名は体を表すって言うでしょう?」
「……なるほど」

一時期とはいえ、名前だけではなく姿形も偽っていた新一には若干耳が痛い。
でも、だからこそ大事にしたいと思う。
その偽りの過去もひっくるめたすべてが、今の新一に繋がっているのだから。

目の前ではスプーンを手にした梓が慎重な手つきでキャニスターを開けた。
そのまま軽く山盛り一杯の茶葉をすくい上げて見せる。
新一が頷いて大丈夫だと示すと、梓の表情がぱっと明るくなった。
相手は六歳も年上の成人女性なのに、幼い子供のように夢中になって新しい取り組みに挑む姿勢には好感が湧く。
――懐かしいな。
新一は蘭に紅茶の淹れ方を教えたときのことを思い出した。
もう随分前、保育園か小学校に上がった頃だったか。
共働きで忙しくしていた両親の元で、蘭の家にある紅茶といえばお徳用のティーバッグ。
ティーバッグも淹れ方次第で美味しく飲めるが、蘭は新一の家で出される紅茶が日によって味が違うことを敏感に察知していた。
そこで新一が、有希子の監修付きで蘭にレクチャーしたのである。
あのとき見た蘭の瞳の輝きと梓の真剣な眼差しは、どこか似ている気がした。

そうこうしている間に、薬缶から立ち上る湯気は少しずつ密度と勢いを増していく。
とにかく沸騰してからが大事だという新一の言葉通り、梓はやや緊張した面持ちで薬缶に注視している。

「ポット良し、茶葉良し、カップは蒸らす間に温めればいいわよね?」
「それで問題ありません。タイマーは三分でセットしておいてください。茶葉によって蒸らす時間は異なりますが、それぞれのパッケージの表示に従えば良いかと」
「はーい。タイマーセット良し、っと」
「そろそろ薬缶の蓋を取ってみましょうか。気泡の大きさが五円玉くらいになった瞬間が勝負です」
「五円玉ね、了解」

カウンターを挟んだ二人が薬缶の中をのぞき込む、という謎のシチュエーションを続けること数秒。
今です、という新一の掛け声に梓は無駄のない動きでお湯をポットに注いだ。
できるだけ高い位置から勢いよく、酸素をたっぷりと含むように。
これも新一からのアドバイスで、慎重にお湯を注いでいくコーヒーとはかなり違う。
薬缶をコンロに戻したらすぐにタイマーのスタートボタンを押し、保温のためにタオルでポットを包む。
残ったお湯でカップを温めるのも忘れない。

「さすが梓さん、完璧です。ね、簡単でしょう?」
「まだ安心はできないわ。カップに注いでみなくちゃわかんないもの」

カウントダウンしていくタイマーの数字とにらめっこしながら、看板娘は自然と両手を胸の前で組んでいた。
美味しくなぁれ、と願を掛けるように。

ピピピピ、とタイマーの電子音が鳴った。
音を止め、保温のためのタオルをポットから外したところで、新一から追加のアドバイスが入る。

「カップに注ぐ前に、さっき計量に使ったスプーンで軽く一回だけ、ポットの中をかき混ぜてください。何度もやると茶葉が破れて嫌な渋みが出てしまいますから、気をつけて」
「軽く、一回だけ。これでいい?」
「はい、完璧です。注ぎ方は日本茶と同じで、すべてのカップが同じ濃さになるように少しずつ淹れていきます。予備のティーポットがあれば、最初にそちらへ全部注いでしまってもかまいません。移し替える手間は掛かるけど、濃くならないのでずっと同じ味を楽しめますから」

もしも実際に店で出すとしたら、後者のほうがいいんだろうか。
そんなことを思いながら、梓はカップにセットした茶漉しめがけて紅茶を慎重に注いでいく。
今日は飲み比べという名を借りた、梓の紅茶勉強会。
梓の望みどおり、新一は一切手は出さず、コツやポイントとなる事柄を随時差し込んでくる。

「これで完成、だよね?」
「ええ。飲み比べ会、最初の一杯ですね」
「はい、どうぞ」

今後の参考用に、と梓は口を付ける前に紅茶の入ったカップをスマートフォンで撮影しておくことを忘れない。
それからキャニスターや茶葉そのものも記録媒体に収めていく。

――結局、一連の手順を五回繰り返した。
つまり計六種類の紅茶を飲み比べたところで、第一回目の飲み比べ会は終了となった。
カップ一杯に対するカフェインの量は、コーヒーよりも紅茶のほうが圧倒的に低いが、連続して六杯も紅茶を飲めばさすがにカフェインの摂り過ぎだ。
それだけではなく、梓は仕事中にコーヒーを何杯か飲んでいるし、新一も飲み比べの直前に梓が用意したコーヒーを飲んでいる。
今宵の睡眠に影響が出る前にお開きにしましょう、というわけである。

「新一くん、今日は本当にどうもありがとう。いい勉強になりました」
「どういたしまして。まだ全種類制覇してないですから、第二回は後日、日を改めて」
「次は蘭ちゃんも一緒にね。でも、風邪が全快するまでポアロのことは心配しなくていいから、って伝えてくれる?」
「わかりました、必ずお伝えします。ところで梓さん、ひとつお願いが」
「お願い? それって私にできること?」
「ええ。むしろ梓さんにしかできないっていうか。アイツ、自覚なく無茶するとことがあるから心配で……だからまた、今回みたいなことがあったらオレに知らせてほしいんです」
「了解。でもそれ、蘭ちゃんから同じような言葉を聞いたことあるわよ」
「蘭から?」
「うん。新一くんがいつも無茶ばかりするから心配だ、ってね」
「えっと、それはその……一応、自覚はしてるつもり、です」
「一応、か。二人とも似た者同士ってわけね」

ふふ、と微笑んで新一の願いを聞き入れた梓は、後片付けを経て今度こそポアロを完全に閉店した。
送っていくという新一からの申し出は丁重に辞退して、入口で二手に分かれる。
夜道を急ぎながら、梓は思った。
次は新一と蘭、二人から一緒に話を聞けたらいいな、と。
蘭はともかく、新一はきっと今日とは違う顔を見せてくれるはずだ。
彼女の前でしか見せない、無自覚で無防備な表情をが浮かんだ顔を。

それまでに、紅茶を淹れる腕前を磨いておかなくちゃね。
梓は握り拳を作り、未来の自分にエールを送った。
そしてもうひとつ、新一と蘭の未来にも心からの声援を送り続けるのだった。


― END ―


去年に続いて「紅茶の月」ってことで。
蘭ちゃんはほぼ出てきませんが、新蘭小話と言い張ってみる。
…第三者から語られる新蘭像、みたいなものを書いてみたかったのです。
本当はもっとがっつりと紅茶談義を挟んでいたけど、サイトに載せるにはくどいすぎるかな?と思ってばっさりカット。
ついでに告白すると、後日編・蘭ちゃんサイドも書いてみたかった(言うだけタダ)。


2019/Nov./30

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