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Tea Party 19


〜 Wish me luck 〜






季節は巡る。
冷たいドリンクで喉を潤す夏、さまざまな大地の恵みが堪能できる秋、湯気の立つマグカップで暖を取る冬。そして――
淡い桜色が街のあちこちで見られるようになる頃。
自然と新一の瞼に浮かぶ光景がある。
それは、文字通りに人生の転機を迎えた、あの日のこと。
編入先の保育園で、新一の心の中にだけ吹き荒れた春の嵐。
それ以前の新一がどうだったのかというと、推理小説家の父親に施された英才教育の賜物なのか、とにかくホームズのことしか頭になかった。
保育園に行く暇があるなら家でホームズの本を読んでいたい、それが本音だった。
しかし、結局は新しい保育園の制服を着せられて、家から連れ出されてしまった。
そんな新一の意識が変わったのは、初登園の日に生まれて初めての推理を披露した直後。
お手製のバッジを差し出してくれた同級生――蘭の笑顔に胸を射抜かれてしまった。
今まで感じたことがないくらい胸がドキドキして、視線が勝手に蘭を追う。
蘭のことが気になってしかたがない。
自分自身の中で巻き起こる未知の現象、それらを新一が言語化できるのはもう少し先のことになる。
だが、この日が新一にとってのターニングポイントであることは間違いない。


運命の出会いから季節は何度も巡り、二人は揃って高校生になった。
新一は念願だった探偵デビューを果たせたものの、蘭への思いは言葉にできずにいた。
探偵としての実績は、停滞中の恋模様とは比べものにならないほど順調に積み重なっていく。
しかし、とある組織がらみの事件に関わったことから運命の歯車は再び大きく回り始める。
第二の転機ともいえる出来事が新一の身に降りかかったのだ。
組織によって姿を変えられた挙げ句、自らの存在を亡き者として扱う。
長期にわたる休学を余儀なくされた新一は、当然、自宅に戻ることもできず、仮初めの日々を蘭の家で過ごすことになったわけだが。
今まで普通にできていたことが、何ひとつ満足にできない。
自業自得とはいえ、小さな身体に馴染むまではもどかしさを覚えることが多かった。

休学中の新一が蘭とやり取りする手段は、電話とメールがメイン。
交わす言葉も、文字も、特別なことは何一つなくて。
彼氏、彼女の関係になっても、それは代わらなかった。たとえば。

「よう、元気にしてたか?」
『わたしのことより、新一はどうなの? ちゃんとご飯食べてる?』
「ああ。毎日三食、ちゃんと食ってるよ。オメーのほうはどうなんだよ?」
『わたし? もちろんちゃんと食べてるよ。昨日、ご近所さんから栗をいただいたから、栗ご飯にしようかなって思ってるの』
「栗? 栗の皮を剥くのって大変なんだろ?」
『うん。でも、栗が手に入るのは今の季節だけでしょう? だから、美味しく食べたいじゃない?』
「なるほど。じゃあ、あのボウズに手伝ってもらえばいいじゃねーか」
『ボウズって、コナンくんのこと? 栗の皮って硬いし、ちょっと難しいんじゃないかな?」
「やらせてみろよ。ちょっとでも戦力になるかもしれねーだろ?」

……こんな感じの、日常の延長みたいな会話ばかり。
ただ、これこそが新一の望む、戻りたい日常でもある。
スマートフォン越しの蘭の口調は、眼鏡の少年に向ける言葉とは明らかに異なっていて。
工藤新一がこの世に存在し続ける理由は、蘭が与えてくれた。
小さな身体で、幾度となく命を危険にさらしながら、それでも新一が絶対に生きて帰るという信念を曲げずに貫き通せたのは――蘭という絶対的な心の支えがあったからだ。
元の姿を取り戻し、無事に復学を果たしてからの新一は、学業優先の日々を送っている。
長期休学の穴埋めに失敗して蘭の後輩になる、なんてことは絶対に回避しなければ。

改めて当時を振り返ってみると、辛いことよりも楽しいことのほうが上回っていたように思う。
広がっていたのは、工藤新一のままでは知り得なかった日常。
いや、知っていたようで知らなかった、と言うべきか。

毛利夫妻が別居したのは、二人がまだ幼い頃だった。
以来、十年以上も現状維持――つまり今も別居状態が続いている。
その間ずっと、蘭は学業や部活に加えて家事も一手に引き受けてきた。
当然ながら新一は蘭が置かれている状況を知っていたし、大変そうだなと傍目に感じ取ったこともある。
だが、本当の大変さを把握できていなかった。
蘭が工夫して時間をやりくりしていることを、生活を共にすることでようやく「理解」したのだ。
長いようで短かった共同生活に終止符を打ち、無事に元の身体を取り戻して自宅に戻った新一は、改めて思った。
まったく興味が湧かなかった家事にも、少しずつ向き合おうと。


蘭はというと、空手部主将として都大会を三連覇した後、部活を引退した。
細くしなやかな手足から繰り出される技の数々にはキレがあり、勇ましさと同時に美しさも感じさせる。
空手の道着を着ていてもわかるスタイルの良さ、白磁のような肌、艶やかな髪、きゅっと上がった口角と印象的な大粒の瞳、自前の睫毛は何もしなくてもくるんと上向きで、ごく自然に目力アップの手助けをしている。
どれをとっても、その可憐な容姿からは空手の有段者だとは思えない。
だが、彼女の強さは折り紙付きで、過去に巻き込まれた事件で犯人逮捕に貢献した回数は軽く二桁に昇る。
事件といえば、警視庁捜査一課の紅一点もまた、その見た目からは想像も付かない体術の使い手である。
双方に共通して言えるのは、外見はただの記号でしかない、ということだ。
とはいえ、蘭が街を歩けばさまざまな視線が彼女に集まる。
たとえばナンパ目的だったり、芸能事務所のスカウトだったり、街角スナップを狙うファッション雑誌のカメラマンだったり。
日常生活においても、蘭をめがけて飛んでくる恋の矢は数知れず。
困っている人がいれば、立場も善悪も関係なく手を差し伸べる。
そういう部分では新一よりも勘がいいのに、何故か蘭は自身に向けられる恋心にだけは気が付かないのだ。
どうしてだろう?と新一は首を捻る日々を送ってきた。
けれども蘭のことを「ただの幼馴染み」と言い張っていた頃の新一にできたのは、黙々と彼女に狙いを定めた恋の矢を打ち落とすことだけ。
それが最大限の防御であり、攻撃でもあった。

彼氏という正式な立場を手に入れてからは、誰に遠慮することもなく、鋭い視線を周囲に放つようになった。
その視線の意味を知らない蘭からは、いつも「目つきが悪い」と咎められてしまうので、新一は理不尽という名の針にチクチクと胸の底を突かれているような気持ちになるのだけれど。
あるいは、別方向に誤解した蘭からそっと袖を引かれたことも。

「……新一、わたしと一緒にいても楽しくない?」
「へ?」
「だって、さっきからずっと変な顔してるんだもん。せっかくの、デートなのに」

表情を曇らせて、蘭はもそもそと言葉を繋いだ。
照れ屋な蘭は「デート」の部分だけ声が小さい。

「そんなわけねーだろ! オレだって楽しみにしてたんだからな、蘭とのデート」

新一が「デート」の部分を強調すれば、蘭は「ホントに?」と疑いの口調で付け加える。
力強く肯定してみせると、蘭はたちまち満開の笑顔をほころばせた。
遠慮がちに「わたしも」と細い腕を新一のそれに絡めてくる蘭の、照れたような笑顔は絶品。
冬の木枯らしを感じていた新一の心は、一瞬で春爛漫に変わる。

……この笑顔に惚れたんだよなぁ。

酒は百薬の長などというが、新一にとっては蘭の笑顔こそ滋養強壮に効く万能薬だ。
離れていた期間を取り戻すことはできないけれど。
だからこそ新一は、この先はほんの少しでも長く蘭のそばにいようと誓った。
他の誰にでもなく、自分自身に。


***


世の中には「重ねたデートの数だけ距離が縮まる」という説がある、らしい。
らしい、と新一が語尾を濁らせるのには理由がある。
残念ながらその説は、新一と蘭には全く当てはまっていないからだ。
幼馴染み同士の恋の宿命なのかもしれない。
まず、最初から二人の距離感は恋人同士のそれに近かった。
さらに付け加えるならば、幼い頃から一緒だったせいで、何をするにも今さら感が拭えないのだ。
ほかにもまだまだある。
誕生日をはじめとする互いの個人情報もバッチリ把握しているし、最初から名前で呼び合っているから「名字呼びから名前呼びに変える」イベントも発生しない。
親同士が昔馴染みで家族ぐるみの付き合いがあるから、改めて家族に紹介する必要もない。
初めてのお宅訪問やお泊まりも、早い段階で経験済み。
一時的な仮の姿だったとはいえ、同居も果たしている。
それ以前も今も、蘭は自分の家のあれやこれやもあるのに、一人暮らしの新一の世話を焼くために工藤邸に足繁く通う。
一人二役どころか、三役も四役もこなしている。

「いよいよ明日だね。新一、大丈夫?」
「もちろん。準備万端だぜ」
「ほんとに? 無理してない?」
「してねぇよ」
「ふぅん? じゃあ、特訓の成果を見せてもらえるってわけね?」
「おう、任せとけ!って言いたいところだけど。とりあえず明日は、蘭の足を引っ張らないようにするのが目標、てところかな」
「やだ、珍しく弱気になってるの?」

くすくす笑いながら、蘭は急須を手にする。
湯飲み代わりのマグカップに注がれるのは、明るい琥珀色。
ここ数日、コーヒーの飲み過ぎで胃の調子が芳しくないと零した新一のために、蘭が夕食後のお茶として選んだのは焙じ茶だった。
焙じ茶とは、新茶の時期以降に収穫された茶葉を炒って香ばしく仕上げたものである。
加熱によってカフェインやカテキンは減るが、緑茶には含まれないピラジンという成分が生成される。
焙じ茶特有の芳ばしい香りはこのピラジンによるもので、ほかにも血行を促進して身体を温めたり、脳をリラックスさせる効能もある。
マグカップにたっぷりと注がれた焙じ茶を、新一はちびちびと飲み進めた。
新一と向かい合って座る蘭もまた、同じように焙じ茶を飲んでいる。
明日は二人揃って朝から出掛ける予定を立てており、蘭はその確認ついでにお茶を淹れてくれたのだった。



――翌朝、都内某所。
二人は朝早くから忙しく動き回っていた。
家を出る頃には少し肌寒さを覚えたものの、日差しは暖かい。絶好のお出掛け日和になりそうだ。
木漏れ日の下、蘭が踏みしめた落ち葉がくしゃりと乾いた音を立てる。

「蘭、こっちはこんな感じでいいか?」
「うん、それでいいと思う。ありがと」

蘭が指で輪っかを作って笑顔を見せると、新一はホッとした様子で作業に戻った。
二人が早朝から訪れているのは、都内でも有数の面積を誇る公園。
ビルが乱立する都心にぽっかりと広がるオアシス的な場所で、遊歩道や噴水、花壇、テニスコートのほか、ライブや演劇ができる野外施設もある。公園内に点在するベンチでひと休みする人がいる一方で、散歩やジョギング、ピクニックなどで身体を動かす人もいて、皆それぞれの時間を過ごす。
その広い公園の入口に、今日は大きな看板が設置されていた。
「コーヒーフェスタ in 日比谷」と銘打ったイベントの開催を告げるものである。
日比谷公園の一角に東京近郊からコーヒー自慢の店が集まり、それぞれに趣向を凝らしたメニューを提供する。まさにコーヒー好きのためのイベントが開かれるのだ。
この一日限りのイベントに参加する喫茶ポアロを手伝うため、新一と蘭の二人は朝早くから張り切って公園に来ている。
新一はこの日に備えて、約半月ほど前から蘭にペーパードリップでのコーヒーの淹れ方を教わった。シンプルで見慣れた所作とはいえ、実際にやってみると非常に難しい。
少しでも腕を上げたくて、蘭からの特訓に加えて自主練も行い、この数日間で大量のコーヒーを淹れまくった。
新一の胃の調子が若干芳しくないのは、味と香りを覚えるために「淹れたら飲む」をひたすら繰り返した結果だ。
今日、出張ポアロを任される立場の蘭は、備品の準備と確認に余念がない。
アルバイト未経験の新一にも目を配りながら、くるくると立ち回り、楽しそうにこの場を仕切っている。

喫茶ポアロがこのイベントへの出店を決めたのは、常連の刑事たちが「店の宣伝になるんじゃないか?」とチラシを持って来てくれたことに端を発する。
会場となる日比谷公園は、彼らの職場である警視庁の目と鼻の先。
日頃の感謝に答えるためにも是非参加したいと思ったが、タイミング悪くイベント当日に既に大量のデリバリー注文が入っており、店を離れることができない。
けれども、彼らの厚意を無駄にするのも忍びない。
デリバリーに対応しつつイベント参加も果たすには、どうすればいいか。
むむむ、と腕を組んで話し合うマスターと看板娘の間に割って入ったのが蘭だ。
「わたしが行きます」の一言で計画は動き始めた。
イベントにはマスターの名前で申し込むが、当日は蘭がポアロの名代としてイベントを任されている。

蘭が名乗りを上げたのは、一番の適任者が自分だという自負があったから。
部活引退後にポアロでアルバイトを始めて約二カ月、一通りのオペレーションはこなせるようになっている。
シフトに入れるのは平日の放課後と週末、混み合う時間に数時間ずつ。
空手部での活躍が認められて早々に進路が決まった蘭は、受験生という縛りからはいち早く解放されている。そこで、これまで部活に割いていた時間をポアロのアルバイトに回すことができているのだった。
蘭にとってポアロは幼い頃から通い慣れた店だし、店員の梓とは年の離れた姉妹のように仲が良い。
おまけに蘭は幼い頃から一切の家事を担ってきた。
調理と接客の両方を担当するポアロでは即戦力として、マスターや梓からも頼りにされている。

すっかり第三の店員と化した蘭は、当初、このイベントの手伝いも単独で請け負うつもりでいた。
そのための準備も重ねてきたのに、蘭の予定を知った新一は案の定というか、「オレも一緒に行く」と言って一歩も譲らない。
長い休学を経て自宅に戻ってきた新一は、過保護というか、とにかく蘭のことを構い過ぎる。
蘭とは違って、日本最高峰の大学を狙う新一は年明けが受験本番。
彼の場合は学力や試験に不安を感じることはないが、長期休学の代償として出された課題の山は無視できない。これをクリアしない限り卒業できないからだ。
おまけに以前より数を減らしているとはいえ、探偵としての依頼も舞い込む。
それでも新一は必ず蘭のシフトに合わせてポアロに足を運び、店の邪魔をしないようにカウンター席の一番端の席を選んで黙々と課題を片付けるのだ。
蘭が「家のほうが静かだし、落ち着くんじゃない?」と言っても、新一は「ここのほうが捗る」と言って譲らない。
有言実行の諺どおり、新一は与えられたノルマを着実にこなしている。
だから、蘭としては文句を付けることもできず、今日も一緒に公園まで来た。
「たまには息抜きも必要だから」という決め台詞に押し切られた、とも言う。

ちなみにフェスタの主催が示したイベント参加条件は、下記のふたつ。
その一、オリジナルのコーヒー豆を提供すること。
その二、コーヒーに合うフードメニューを用意すること。
ここ最近の喫茶ポアロは、コーヒーとハムサンドが名物メニューとして評判を呼んでいる。
できればこの二つを提供したかったのだが、コーヒーはともかく、ハムサンドを現地で作るのは難しい。
ポアロのハムサンドには、通常のサンドイッチづくりではまずあり得ない、パンを蒸し器で蒸すという工程がある。
屋外の、狭いテント内で蒸し器を使うのは難しいとの判断から、フードメニューには焼き菓子を選択した。
これなら公園内のベンチで手軽に食べることもできるし、テイクアウトもしやすい。何より、コーヒーとの相性もいい。
日持ちするため事前にある程度の量を作り置きすることもできる。
イベントで提供するのに向いていると言えるだろう。

蘭がポアロの仲間入りをしてから一番苦労したのは、コーヒーの淹れ方を習得することだった。
紅茶は家でも工藤邸でも淹れるので慣れているけれど、ポアロは香り高いコーヒーが自慢の店だ。残念ながら紅茶の出番はない。
教わったとおりにコーヒーをドリップ式で淹れてみると、お湯を注ぐタイミングがとにかく難しい。抽出が終わるまで目を離せないのも、紅茶と大きく異なる。
蘭が客として見てきたさまざまな所作も、改めて習ってみると、とても繊細な手順を踏んでいるのだとわかった。
何度も練習を重ねた末に、少しずつ納得のいく味を出せるようになって。
マスターから「お客様に提供する腕前に十分到達しているよ」と合格点をもらえたとき、蘭はその場で飛び上がって喜んだ。
新一がイベントのために特訓して磨いた腕は、仮免許ではあるが、客に提供できるレベルにはどうにか間に合った。
こうして迎えたのが今日の本番、というわけである。

紙コップなどの資材やコーヒー関連の道具、コーヒー豆、そして前日にラッピングした大量の焼き菓子などの必要な荷物は、ポアロのマスターが車で運び込んでくれた。
荷物を下ろし、新一と蘭に後を託すと、彼は慌ただしくとんぼ返りしていった。先にデリバリーの注文に取りかかっている梓に加勢するためだ。
マスターは「配達が終わったら様子を見に来るよ」と言い残した。
要するに「最初の数時間は新一と蘭の二人でこの場を切り盛りしてほしい」という依頼でもある。
任せてくださいと胸を張ってマスターを送り出した蘭は、実のところ、あまり心配はしていない。
新一は抜群の推理力と高い運動能力に注目を集めがちだが、手先も器用で細やかな作業もできる。
蘭の手伝いという任務を着実にこなしていく、頼もしい助っ人だ。


いよいよ準備も終盤に差し掛かり、新一がポスターやメニューの掲示などの外回りを確認していると。
……うーん、と蘭は小首を傾げていた。
何とも微妙な表情で腕を組み、少し考え込む様子も見て取れる。
いつもは切り分けたばかりの瑞々しい果実ような笑顔を浮かべている彼女が、このような態度を取るのは珍しい。
そんな蘭の視線を受けて、新一は居心地が悪そうな顔をした。

「これ……そんなにおかしいか?」
「おかしいっていうか、違和感?」

蘭はテーブルの上に焼き菓子を並べる手を一瞬止めて、再び首を傾けた。
今日の新一はグレーのパーカーとブラックジーンズ、スニーカーという定番の格好。インナーはシンプルな白のTシャツで、アクセントとして左胸にポケットが付いている。この時点では特に変わったところはない。
ただ、一番上に身に付けているものが、蘭の目にはどうしても浮いているように見えてしまうのだ。
首と腰に回された紐、胸から膝まである丈夫な帆布製の布、その胸元にあしらわれたコーヒーカップのイラスト。
それは喫茶ポアロのエプロンで、新一は蘭と色違いのエプロンを身に付けていた。
ちなみに新一のエプロンは白地に紺のプリント、蘭のは紺地に白のプリント。
ポアロのエプロンはカラーバリエーションが豊富で、他にもピンク地+赤や紺地+黄色、白地+赤の組み合わせもある。店オリジナルの特注品だから費用を考えれば全部同じ色で作るほうがいいだろうに、店主の道楽で増えたらしい。
誰がどの色を着けるという決まりはなく、その日の気分や洋服に合わせて選ぶシステムとなっている。
今日の蘭はミルクティーブラウンのジップアップパーカーにオフホワイトのリブニット、その上からエプロンを着けている。
ボトムスはシンプルな黒のスキニーパンツ。どちらも単品では見たことがあるけれど、この組み合わせはなかったような気がする。少なくとも直近の新一の記憶にはない。
ややオーバーサイズのパーカーの上から腰紐できゅっと絞ると、蘭の細いウエストがさらに強調されてしまう。だが、エプロンは制服代わりの必須アイテムなので新一は口出しできない。
足元は動きやすいスニーカーで、休日にはキレイめな靴を好んで履くことが多い蘭にしては珍しい。

「蘭のこういう格好、久しぶりに見たような気がする」
「え……変、かな?」
「いや、似合ってるよ」
「良かったぁ」

短いやり取りの間に、蘭はころころと表情を変えた。
ビックリした顔、戸惑いに揺れる瞳、嬉しそうにほころぶ唇。
どんな表情も新一の目には魅力的に映るけれど、頭の片隅に何かが引っかかった。
決して嫌な感じではなく、もっとこう、心をくすぐられるような。
気になってチラリと蘭に視線を投げてみると、色違いとはいえ新一と同じものを身に付けているとは思えないほど、それはしっくりと蘭に馴染んでいる。

「蘭は全然違和感ないよな」
「当たり前でしょ。家でも毎日エプロンを使ってるんだから」

笑顔でそう返されれば、新一は肯定するしかない。
蘭の言葉通り、彼女のエプロン姿が様になっているのは日常的にエプロンを使うからだ。
新一はというと、自宅でまともにキッチンを使うのは、朝食を用意するときだけ。半分寝たまま食パンをトースターにセットして、インスタントのコーヒーを淹れる。
たったそれだけのためにエプロンを使おうとは思わないし、そもそもエプロンを持っていない。
新一がこんなにエプロンにこだわるのには、毛利家で暮らした経験を踏まえたうえでのこと。
「似合わない」と言われるよりも、「違和感」のほうが状況的にマズい気がする。
かつて、蘭の母親で敏腕弁護士の妃英理は娘に「幼馴染みと探偵には気を付けるように」と言い渡していた。
蘭はどちらかというと母親似だ。
つまり、後々のことを考えて新一がたどり着く結論は。

――もっと家のこともできるようにならないと、いずれ愛想を尽かされるのでは? だ。

面倒見のいい蘭のことだから、新一のことをすっぱりと見切ることはないのかもしれない。
いや、だが、それこそが甘えなのだ。
新一が己の内側でこっそりと危機感を募らせていると、蘭は細い手首に巻いた腕時計を新一に向けた。

「新一、そろそろ始まるよ」
「お、おう」

準備が整った白い日除けのテントの下で、新一は蘭を見習って背筋を伸ばす。

「コーヒーフェスタ in 日比谷、開場します。皆様、コーヒーとの出会いをお楽しみください!」

午前十時。
主催者のアナウンスと同時に入り口を封じていたロープが解かれると、来場者が続々とイベント会場内に足を踏み入れる。
お目当ての店を目指して散っていく人々のなかから、早速ポアロのテントにも親子連れと思われる二人組が近寄ってきた。
男性は三十代前半、子供は小学校低学年くらいの男の子。
子供が小脇にサッカーボールを挟んでいることから、公園に遊びに来たついでにイベントにも立ち寄ってみたのだろう。
父親はコーヒーのメニュー表に、子供は店頭に並んだ焼き菓子に視線を向けている。
蘭は慣れた様子で声をかけた。

「いらっしゃいませ、喫茶ポアロへようこそ。こちらの焼き菓子は全部、お店で手作りしたものなんですよ!」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、このパウンドケーキとクッキーをもらおうかな」
「ありがとうございます。コーヒーもご一緒にいかがですか?」
「お勧めとかある?」
「どれも美味しいんですけど、一番のお勧めはやっぱりポアロ特製ブレンドですね。注文を受けてからお淹れするので少しお時間をいただくことになるんですけど、大丈夫ですか?」
「今日は休みだから、かまわないよ。オレは特製ブレンドをブラックで、息子の分はカフェオレにしてくれる?」
「はい。こちらで少しお待ちください」

テントの前に並べた丸椅子に案内して、蘭は早速コーヒーの支度に取りかかった。
ドリッパーにコーヒーをセットして、一定のスピードで丁寧に、教わったとおりにお湯を注ぐ。ふわりと漂う香りに、今日初めての客が鼻を鳴らした。

「ああ、いい香りだ」
「ありがとうございます」
「カフェオレのコーヒーの量って調整できるのかな? できれば少な目にしてほしいんだけど」
「かしこまりました。では、ミルクを多めにしておきますね」

にこやかに接客する蘭の横で、新一は一瞬棒立ちになっていた。
ここがポアロで、新一が客の立場ならば「今日も蘭が可愛い」と見ほれていても構わない。
だが、今日の新一は接客する側の立場。傍観者を決め込んではいけない。
蘭が二人分のコーヒーを淹れている間は、新一が焼き菓子の担当になる。
接客の基本は事前に教わったものの、こればかりは知識でどうにかなるものではない。経験値ゼロからのぶっつけ本番だ。
手順通りにパウンドケーキとクッキー、二人分のお手拭きを紙袋に入れ、ショップカードを同封する。
ポアロの味を気に入ってもらえれば、ショップカードを頼りに店のほうにも足を運んでもらえるかもしれない。だから入れ忘れないようにね、と蘭から念を押されていた。
正直に白状すると、新一としては面白くない。
新しい客が増えるということは、蘭に対する警戒レベルをさらに上げる必要が生じるからだ。
さてどうするか、と新一が眉根を寄せたとき、コーヒーを淹れている蘭が新一に目配せした。
ハッとして、新一は軽く頭を振り気持ちを入れ換える。

(……あー危ない。イベント開始早々、蘭と交わした約束を破るところだった)

今日、新一が蘭のお供を許されたのは、二つの条件を守ると約束したからだ。
一つ目の条件は、ポアロの味を習得すること。
蘭の足を引っ張らないように、そしてポアロの評判を落とさないように、自主練を含めて猛特訓してきた。
その成果もあって、新一は無事にこの場に立てている。
しかし、二つ目の条件「笑顔で接客」は相当ハードルが高い。
探偵としての経験は豊富にある新一だが、接客業はおろか、アルバイトの経験は皆無。
昨晩、珍しく弱気になっているのかと蘭に言われた。蘭は初めてのアルバイトに挑む新一のことを、素直に気に掛けてくれたのだろう。
だが、新一の懸念材料は彼女の意図するものとは少し違う。
人見知りをする性格ではないし、コーヒーを淹れるのはそれなりに楽しい。
新一が気にしているのは、顔見知りの刑事達が入れ替わり立ち替わりに高校生探偵の様子を見に来るのではないか、ということ。
元の姿を取り戻した今は、探偵役に仕立てた人物になりきるための演技をする必要はない。けれども、彼らが見ているのは「探偵」の工藤新一。
等身大の自分をさらけ出すのは、正直、気恥ずかしい。
これまで何度も乗り越えてきた危機に比べれば大したことはないと言われるかもしれないが、彼も人の子。十代後半の青春真っ盛りの年頃なのである。
だがしかし、こんなところに蘭を一人で来させてたまるか! の本音のほうが上回った。
その一心で新一は蘭の出した条件を飲んだのだ。
気持ちを入れ換えて精一杯の笑顔を作る。

淹れたてのコーヒーとカフェオレ、焼き菓子の紙袋。
それらを嬉しそうに受け取る親子の笑顔は、ちょっとした感動を新一に植え付けた。

「「ありがとうございました!」」

声を揃えて最初の客を見送り、どちらからともなく視線が絡む。

「すげー喜んでくれてた、よな?」
「うん。新一、初めての接客にしてはいい感じだったんじゃない?」
「マジで? つか、コーヒーもいい香りだって褒めてくれてたじゃねーか。良かったな、蘭」
「えへへ、嬉しい」

蘭はうっすらと頬を染め、今日の青空のような眩しい笑顔を浮かべた。
どんな蘭も可愛いが、やっぱり蘭には笑顔が似合う。
ただ一つ残念なのは、行き交う人々にも新一の宝物が見られてしまったこと。
腹の底から子供みたいな独占欲がふつふつと湧いてきて、新一の顔に暗雲が垂れ込めそうになる。
でも新一には蘭と交わした約束がある。
約束は守るために交わすもの。このイベントが終わるまでは、なんとしても笑顔でいなければ!

「新一、声を出すのも忘れないでよ?」
「お、おぅ」

接客の合間に、蘭はさらに難易度の高い指示を追加してくる。
息を吸って、吐いて。もう一度吸って新一は第一声を放った。

「米花町の喫茶ポアロです。コーヒーと焼き菓子、いかがですか」
「そうそう、その調子!」

蘭の言葉に支えられて、新一の接客スキルはじわじわと上がる。
そんな新一を横目で見ながら、蘭は己の判断が間違っていなかったと思った。


その後も客足はとぎれることなく、気付けばフェスタ開始から一時間近く経過していた。
オーダーが入ると、蘭が率先してコーヒーを淹れる。
丁寧にお湯を注ぎ、コーヒーが抽出されるのを待つ間に新一が焼き菓子のオーダーに応えたり、ちょっとしたコーヒーの蘊蓄を披露して待ち時間の退屈さを緩和する、という流れができた。
デリバリーを終えて加勢したマスターも加わり、午後の時間帯は三人でフル稼動。
コーヒーフェスタと銘打ったイベントだから、当然、足を運ぶ来場者たちはコーヒーが好きだったり、何かしらのこだわりを持っている人が多い。
新一は探偵業で磨いた勘を存分に働かせて、一癖ありそうな客を見抜き、率先して引き受けた。
目の前の客が何を知りたがっているのかを予測し、頭に叩き込んできたコーヒーに関する知識と蘊蓄を披露するのは、ちょっと推理に似ていて楽しい。
最初は固かった新一の笑顔は、徐々に解れていった。


***


イベントは予定通りの時刻に終了し、会場内のあちこちで後片付けが始まっていた。
ポアロの区画では蘭とマスターが、荷物をまとめながら今日を振り返っている。
新一は二人の会話を背中で聞きながら、借り物のテーブルや椅子を拭いていた。

「今日は手伝ってくれてありがとう。本当に助かったよ、お疲れ様」
「マスターもお疲れ様でした。お店との往復、大変だったんじゃないですか?」
「車で往復したからたいしたことはなかったんだけど、新一くんの推理が的中したのは驚いたなぁ」
「公園に戻るときに追加のコーヒーを持ってきてほしい、っていうやつですか?」
「そう、それ! 結局、追加したのも全部売り切れちゃった」
「さすがはポアロですね!」
「常連の刑事さんたちのおかげかな。たくさんテイクアウトしていってくれたからね」
「新一の知り合いの刑事さんたちもたくさん来てくれたんですよ」

顔を見ていなくても、新一には声だけで蘭の表情が読める。
振り返ると、思った通りに蘭は満開の笑みを浮かべていた。
見知った人々が遊びに来てくれたことを素直に喜んでいるのが伝わってくる、そんな笑顔だ。
蘭が言うとおり、新一が常日頃から世話になっている警視庁の面々は、代わる代わるポアロのテントを訪れてはコーヒーや焼き菓子を買っていってくれた。
捜査一課の紅一点や交通課の二人組は蘭との会話を弾ませていたが、その他の刑事達から新一に向けられた視線について、当の本人である新一は苦笑を禁じ得ない。
誰一人として口には出さなかったけれど、接客しつつ蘭に集まる視線を牽制するのに必死な新一のことを観察しに来たのだろう。
多分、純粋に応援しに来てくれたのは半分もいなかったと思う。
苦笑を飲み込んで会話に割り込む。

「ほとんど野次馬だったと思いますよ? オレに探偵以外の仕事ができるかどうか、って」
「そういう言い方はよくないよ、新一。皆さん忙しいのに、わざわざ新一の様子を見に来てくれたんだから。ね?」
「僕としては売上に貢献してくれて嬉しいよ。皆さん、店のほうにも来てくれるといいんだけど」
「今度彼らに会ったら、バッチリ宣伝しておきます」
「頼んだよ、新一くん」
「はい」

とはいえ、彼らの顔を思い出すと気恥ずかしさが蘇ってくる。
新一は後片付けに集中して気を紛らわせた。



「本当にいいのかい? 家まで送っていかなくても」
「はい。この後、新一と銀座に行く予定なんです」
「昨日からイルミネーションが始まったって、ニュースでやってましたからね。ここからなら歩いても近いですし、行ってみようかと」
「若いっていいねぇ。じゃあお先に」

楽しんできてね、とマスターは荷物を載せた車をポアロへ向かわせた。
片付けている間に日はとっぷりと暮れて、街灯の明かりが等間隔に夜の闇を照らしている。
すっかり元通りになった公園を背に、新一は蘭に向かって手を差し出した。
終了間際に来た二人連れの客がこの後イルミネーションを見に行くと言ったとき、新一は見逃さなかったのだ――蘭の瞳が輝くのを。
接客の隙間に蘭を誘ったら、満面の笑みで「うん!」と返されて。
新一は「早く彼女を楽しませたい」という一心で、不慣れなイベントを乗り切ったのだった。

「じゃあ、行こうか」
「うん」

しっかりと手を繋いで、二人はゆっくりと歩き出す。
このまま公園の出口に向かおうと思ったが、その少し手前で新一は立ち止まった。

「ちょっと寄り道していいか?」
「寄り道? 別にいいけど、何か用事ができたの?」
「いや、そうじゃなくて。ほら、あれ」

新一が空いているほうの手をすいっと上げて指し示したのは、煌々と明かりが灯った四角い箱。
正面に数種類のドリンクが並ぶ、自動販売機の前で新一は立ち止まった。
ポケットから取り出した数枚の硬貨を投入する。

「オレ、ちょっと喉が渇いてて」
「そうなの? ゴメンね、気が付かなくて」
「なんで蘭が謝るんだよ。オレ自身、たった今気付いたのに」

忙しかったのもあるが、イベントが終わるまではとにかく必死で、喉が渇いていたことにも気が付かなかった。
逆に言うと、それほどまでに新一は接客の仕事に夢中になっていた、ということになる。
自動販売機で飲み物を買うとき、新一が第一候補に挙げるのは缶コーヒー。理由は簡単、どの自販機にも必ず数種類は取り扱いがあるからだ。
実際、目の前に並ぶ飲料の中で一番種類が多いのはコーヒーの類だが、新一は連日何杯もコーヒーを飲みまくってきた。自然と身体が別のものを求めてしまう。
コーヒー以外となると、選択肢は自ずと絞られる。
緑茶、レモンティー、ミルクティーからの三択で、新一は迷うことなくミルクティーのボタンを押した。
いつだったか蘭が美味しいと言っていた銘柄がある。どんな味なのか興味が湧いたこともあるが、普段はほとんど手を伸ばすことのない甘い飲み物を求めてしまったのは、自覚がないだけで身体は疲れているのかもしれない。

「蘭はどうする?」
「いいの?」
「当然」
「じゃあ、わたしも同じヤツにする」
「りょーかい」

ペキ、とキャップを開け、新一は早速口を付ける。
手のひらサイズの小さなボトルだから、もし口に合わなくても一気に飲み干せる量だ、なんとかなるはずだ。
などという失礼な予想は大ハズレだった。最初のひと口を飲んでみて、さすがは蘭だなと納得する。

「へぇ……ペットボトルなのに意外と美味いな」
「でしょ? わたしも気に入ってるの」

予想外に飲みやすかったのと、思ったよりも喉が渇いていて、新一はすぐにボトルを空にしてしまった。
自販機に併設されたゴミ箱に捨てる前、偶然目に入った原材料名には香料の文字がなかった。だからか、と新一はさらに深く納得する。香料が入ると不自然な味に感じてしまうのだ。
蘭はまだ半分も飲んでいないが、キャップを閉めてしまった。今すぐ飲み切るつもりはないらしい。
ならば、と再び蘭の右手を取って今度こそ銀座へ向かおうと思ったのだが。
蘭はミルクティーのボトルを両手でぎゅっと握りしめたまま新一を見上げている。
差し出した新一の左手が、空を切った。

「蘭、どうした?」
「ねぇ新一、やっぱり行くのやめにしない?」
「なんで? オメー、楽しみにしてただろ?」

新一からの誘いに、キラキラした笑顔で頷いた蘭。
楽しみにしていたのは間違いない。それなのにどうして。
大粒の瞳をじっと覗き込むと、蘭はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「新一、今日は朝から慣れないことばかりだったのに、大活躍だったよね」
「そうか?」
「うん。だからね、疲れてるんじゃない?」
「まさか。あの程度で疲れたりしねーよ」
「嘘だぁ。いつもの新一なら、ミルクティーじゃなくて緑茶にすると思うんだけど」

蘭は手にしたままのペットボトルを突き出した。
それは真っ直ぐ新一にヒットして、反応が遅れた新一は不覚にも一歩よろけてしまった。
ほらやっぱり、と言わんばかりの視線を向けられて思わず苦笑が漏れる。

「さすがだな、蘭。実はちょっと疲れてる」
「わたしがイルミネーションに行きたいって言ったから、無理してるんだよね?」
「あのなぁ、蘭。誘ったのはオレなんだけど?」
「でもっ」
「大丈夫、心配すんなって。体力的には全然問題ねーから」
「……するわよ。心配だもん、新一のこと」

自販機の明かりに照らされて、じっと見上げてくる蘭の破壊力がすごい。
心理的な疲労を見破られたのは、探偵としては情けないと思う。でも。
蘭になら見透かされるのも心地いいと思ってしまうのが、工藤新一という男なのだ。
この疲労から回復する手段は、たったひとつ。

「だったら行こうぜ、イルミネーション。きれいなものを見れば疲れも吹き飛ぶだろうし。な?」

頼む、と新一が両手を合わせると、蘭は仕方ないなぁと小さく微笑んだ。
ペットボトルをバッグに押し込み、今度は蘭のほうから右手を差し出す。

「イルミネーションで新一の疲れがなくなるなら……行かなきゃ、だよね?」
「そういうこと!」

蘭の華奢な手を、新一は丁寧に掬い取った。
楽しみだねと微笑む天使の笑顔は、新一の疲れを粉々に打ち砕く。
今日も新一専用の万能薬の効果は抜群だ。

ぴったりと重なった手と手が、温かい。
指先が冷えていないのはミルクティーのおかげか、それとも……?
そんなことを頭の片隅で思いながら、新一は彼女の指と自身の指を一本ずつ絡めていく。
今日初めて、いわゆる「恋人繋ぎ」をしてみた。
ただの幼馴染みではしなかった、いやできなかったことだ。
浮かれて変な歩調にならないように、努めて冷静に一歩、二歩と踏み出せば蘭も新一と同じタイミングで足を前に出す。
早すぎず、遅すぎず、彼女が無理をしない程度の絶妙なペース配分をキープしなくては。
大丈夫だろうかと蘭の様子をうかがえば、手のひら越しに緊張が伝わってくる。
まだ早かったのかもしれない。新一が手を離そうとしたとき、追いかけるようにぎゅっと握り返された。

「……蘭?」
「これって恋人繋ぎ、だよね?」
「一応そうだけど……ダメだった、か?」
「違うの。そうじゃなくて……初めてだなぁって、思ったの」

しかも本日ふたつ目、と蘭は嬉しそうに笑顔の花を咲かせた。
ほんのりと染まった頬を隠そうともせず、見ているだけで幸せになれる笑顔が新一を見上げている。
それは新一の全身に行き渡り、頭の先から爪先まで気力で満ちていく。
元の身体に戻れて良かった、と新一が実感するのはこういうときだ。だが、探偵としての性には抗えない。蘭の付け足した言葉は、喉に刺さった小骨のように新一を突く。

「……ふたつ目って、何が?」
「実はね、これも初めてを狙ってたの」
「これって、パーカー?」

蘭はこくりとうなずき、ミルクティーブラウンの裾を持ち上げた。
華奢な身体を包む緩いシルエットは足の付け根にかかるほどの着丈がある。
そこから伸びる、細く健康的なスキニーパンツの足と軽やかなスニーカーの足元。インナーのリブニットも相まって、見れば見るほど蘭のスタイルの良さが際立つ。

――まぁ、蘭は何を着ても似合うけどな。

という事実確認はともかく、新一が今朝から何となく頭の片隅に引っかかっていたものの正体が、輪郭を持ち始めた。
今日は新一も蘭もパーカーを着ている。色やデザインは異なるものだが、ボトムスはどちらも黒だし、インナーの色も似ている。足元はスニーカーで、おまけに昼間はエプロンを着けていた。
これはもしかして、もしかすると。

「今日、オレがこの格好で来るってこと、予想してた?」
「うん。パーカーの色は違ったけど、大体の雰囲気は合ってるよね?」
「蘭がふたつ目の初めてって言ったのは、つまり、」
「ペアルック、のつもり。一度してみたかったの」
「オレに寄せてくれたってこと?」
「うん。わたしが勝手に合わせただけなんだけど……ちょっとでも新一の彼女っぽく見えるかな、って思って」

蘭の声がだんだん小さくなって、後半はほとんど消えそうになっていた。
後半は聞かせるつもりがなかったのか、あるいは独り言だったのかもしれない。
だが、絶対音感を持つ新一の聴力を侮ってもらっては困る。一言一句、しっかりと新一の耳に届いている。
どうやら蘭は、盛大な勘違いをしているらしい。

「そういうことなら事前に相談してくれれば良かったのに」
「えっ、ホントに? 新一、こういうの苦手じゃないの?」
「蘭とペアルックになるなら、喜んで。ていうか、オレにとっても一石二鳥だしな」
「一石二鳥? ペアルックが?」
「ああ。黙っていても、蘭がオレの彼女だってアピールできるだろ?」

新一がウィンクと同時に繋いだままの手をぎゅっと握りしめると、蘭は今日一番の笑顔で頷いた。
イルミネーションよりも眩しく輝く、新一だけの宝石。
公道でなければ、今すぐこの腕の中に閉じ込めてしまいたい。
でも、今日、やっと恋人繋ぎに進んだばかりの二人にとって、目指すゴールは遙か先。まだまだ遠いな、と思いながらも新一は遠くを見据えて布石を打つ。

「なぁ、蘭。次のお揃い、オレからリクエストしてもいいか?」
「新一から? 別にいいわよ。ちなみに、どういう感じのファッションにするつもり?」
「ファッションっていうか、オレと蘭が一発で恋人同士ってわかる、魔法のアイテム」
「魔法のアイテム?」

オウム返しする蘭が可愛いなと思いつつ、こくりと頷いた新一は一旦繋いだ手を離した。
驚いた蘭の、今度は左手を持ち上げる。そして。

「いつか、お揃いを……ここに。取り急ぎ、予約だけ入れさせて」

約束の印を付ける指の付け根に、新一はそっと唇を寄せた。
新一の宣言どおりに二人が魔法のアイテムを身につける日を迎えるまでのカウントダウンは、すでにもう始まっている。




― END ―


もうすっかり師走の声が聞かれる頃合いになってしまいましたが。
「紅茶の日」のお話としてこっそりアップしておきます。
大遅刻もいいところだけど、どうにか年内には間に合った!

2022/Dec./14

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