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Woman

〜 君に送り続ける、たったひとつのもの 〜 part 1

長かった。
いったいどれくらいこの日を待ち望んできたことか。
10年、いや100年にも感じられたこの数カ月が、ようやく終わったのだ。



***

スローモーションフィルムのように、ゆっくりと目を開けると、にじんだ景色が次第にくっきりと輪郭を整え、新一は今置かれている状況を無言のうちに知ることができた。
視界一面の白。鼻先をかすめる科学的な空気。
目線を少し横にずらすと、新一の腕の辺りで、珍しく顔色の悪い有希子が組んだ両手に額を乗せたまま、俯いている。

どうしたんだよ、と言おうとしても上手くいかない。
うめき声にしか聞こえない程ひどく掠れた声を絞り出しすと、ハッと顔を上げた有希子は大声で息子の名前を呼びながら、枕元のコールボタンを何度も繰り返して押した。
優作に続いて、間を置かずに室内へ入って来たのは、危険過ぎる、という新一の制止を無視して解毒剤を飲み、元の姿を取り戻した志保だった。2歩ほど遅れて来た目暮が部屋の角に心配そうな面持ちで立っている。

まだ上手く体を動かせない新一は、主治医である志保にされるがままの状態で、大人しく横になっていた。
志保は手早く新一の身体や指に接続された複数の機器のモニタに目をやり、もう一度自らの手で脈と体温を確認すると、目を細めて優作と有希子に向き直った。

「精密検査をしてみないと100%の保証は出来ませんが、これで、まず心配はないと思います」

涙に濡れた頬を拭いながら、有希子は優作に寄り添って、ただ頷くことでずっと待ち望んていた事実を受け止めた。その度に軽くウェーブのかかった髪が揺れる。
精密検査の準備のため、志保は医局に、また目暮は他の刑事達にこのことを知らせるために席を外すと、室内には工藤家の家族のみが残された。

「おかえり、新一。よく帰って来たな」
「ほんと、良かったぁ。新ちゃん、あれからずっと眠ってたんだもの」

ようやく動かせた顔を両親の方に向け、軽く微笑んでみせた後、新一は更にその奥を覗き込むように目線を飛ばした。そこには、新一の探しているものはなかった。

「大丈夫。蘭ちゃんには言ってないわ。あなたは今、私たちと一緒にアメリカにいることにしてあるから」



有希子が再び“江戸川文代”として毛利探偵事務所に現れ、コナンが姿を消したのは4ヶ月前。
新一が、しばらく連絡出来そうにないんだ、と蘭に電話をしたのが3ヶ月前。
そして、奴らに最終決戦を挑んだのが、1ヶ月前。

これまでの新一の調査結果と志保の助言、および優作の口利きで協力を得ることが出来たFBIをも巻き込み、文字どおり世界規模の戦いと化した組織の殲滅作戦は、どうにか終了した。・・・複数の犠牲とともに。
「オレも参加させへんかったら、あの姉ちゃんに洗いざらいぶちまけるで?」と半ば強制的に後方支援役を勝ち取った平次が、床を赤黒く染め、ほとんど意識のない状態の、炎と爆風から身を守るように壁にもたれて座り込んでいた新一を発見した。
苦痛に歪んでいるかと思われたその表情は、驚くほどに穏やかで平次を愕然とさせた。しかし、わずかに動いた口元からその理由を察すると、今度は納得したように新一を見遣った。

(工藤はこんなところで逝ってしまう奴やない)

搬送先の警察病院の手術室の前で、心配する関係者を他所に、平次はそう確信していた。
実際には失血量がひどく、かなり危険な状態が続いていたのだが、手術は無事成功し、新一の覚醒を待つばかりの状態でいたのだった。

新一が事前にしいておいた箝口令のおかげで、蘭には事の真相は伝わっていない。さすがに小五郎や英理の耳には事件の概要は入っているが、詳細は伏せられている。異様に勘の良い蘭に気付かれないようにするため、今回は捜査の協力もさせていない。ただ、蘭の警護をさり気なく且つ厳重にするよう、新一から小五郎には秘密裏に依頼してあった。



志保の許可を得て有希子が少しずつ口元に含ませてくれた水分が、喉から全身へと一気に染み込んでいく。優作がハンドルを操作し、少しだけベッドを起こしてやると、そこでようやく新一はまともに話すことができるようになった。

「・・・奴らはどうなった?」
「今回は日本警察とFBIの協力体制が功を奏して、今は掃討戦に移った、というところかな」
「そっか。ところで、オレ、どれくらいここにいたんだ?」
「1ヶ月になるわ。本当に心配したんだからっ、、、」

せっかく乾いた瞳を再度潤ませて、有希子は新一の頭を撫でながら、極上の笑顔を見せた。
意識を取り戻した直後の会話内容がこの様子だと、言語や記憶に関する脳へのダメージはなさそうだ。ただ、寝たきりの状態が続いたため、元の身体能力を取り戻すのには幾らか時間がかかりそうなのは疑いない。

ゆっくりとではあるが、しばらく事件の後処理について優作の報告に聞き入っていた新一は、最後まで自分自身が手掛けられなかったことを悔やみ、また、未だ思うように動かせない自分の体に苛立ちを覚えた。しかし、今の新一に実際に出来たことといえば、眉根を寄せるだけだった。優作にも有希子にも、その心情は言われるまでもなく、身を切るように伝わってくる。

検査の指示を出し終えて再び病室に戻って来た志保に、まだしばらくは安静が必要よ、と釘を刺され、いつもは聞き分けのない新一も、今は素直に志保の指示に従った。
その前にひとつだけ、いいか?と断って、すぐ傍に立っている有希子と目を合わせると、新一が口を開くより先に答えを導き出した有希子は、適格に言い当てた。

「安心して。今、蘭ちゃんには小五郎君がしっかり付いているから」

照れくさそうな笑顔を見せた新一は、少し眠るといいわ、という志保の言葉に、ゆるゆると首を振って否定した。

「寝過ぎて頭痛てぇくらい。とっととリハビリでも何でも始めようぜ? な?」
「今頃死神とチークダンスを踊っていたかもしれないって人が、何言ってるの。検査を含め、あと2日はベッドに貼り付いていてもらいますからね」
「そんなにかかるのか?」
「それと、もう二度と目を開けない、なんて心配はないから、安心して眠って良いわよ」

新一の焦りと不安をやんわりと払拭し、志保は今までに見せたことのない柔らかな微笑みを残し、2時間後に迎えに来ると言って再び退室していった。
新一は、自分も眠るから、母さんもそうすれば?と、顔色の悪さから余り寝ていないであろう有希子に、隣に設置された空きベッドでの仮眠を薦めた。優作には、警察やマスコミ関係への箝口令の強化を依頼し、これから続く検査に備えて目を閉じた。

***

覚醒からきっかり2日後、すべての検査をクリアした新一は、3日目には既にリハビリに挑み、5日もすれば一応歩ける程度にまで復活していた。

優作と有希子は一旦アメリカに帰国して行った。優作の著書が映画化され、そのワールドプレミアがロスで開かれることになっていたからだ。有希子は直前まで躊躇していたが、いつも仲の良い二人が一緒に参加しないと、かえって蘭に怪しまれる、と言った新一の助言もあり、また、息子の驚異的な回復力を見せつけられて、渋々了承したのだった。



リハビリ室でひと息ついていた新一に、背後から志保が声を掛けた。担当の作業療法士も制止するくらい、時間の許す限り新一はひとり黙々とリハビリに取り組んでいる。

「正直、驚いたわ。まさか、こんな短期間に、ここまで動けるようになるとはね」
「ああ、おかげさまで、な」
「私じゃなくて、誰かさんのおかげ、でしょ?」
「で?そんな嫌味を言いに来たわけ?」
「あら、随分な物言いね。折角いいニュースを持って来てあげたのに」

一刻も早くここを脱出することしか考えていない新一は、つい不粋な態度をとってしまった。
そんな新一の目の前に、ファイルから取り出した書類を1枚突き付けると、志保は時折見せるようになった控えめな笑顔を残してリハビリ室を辞した。
それから5分後、新一は逸る気持ちを抑えつけるように、祈るような格好でタクシーの後部座席に身を預けていた。志保が渡してくれたのは、特別に取得してくれた、外出許可証だった。



土曜の午後は、街を行き交う人々も、気のせいかいつもよりのんびりとしているように見える。
今日に限って、えらく生真面目なドライバーに当たってしまった。
本来ならば賞賛されることなのに、今の新一にはそれがもどかしくて仕方がない。
一秒でも早く本来いるべきところに戻りたいのに、いちいち停止する信号待ちの時間さえ惜しく感じられた。
そんなもん無視してぶっ飛ばしてくれよ、などと物騒なことを考えてしまう。


最後の電話で聞いた蘭の声は、懸命に隠そうとしていたけれど、震えていたのはわかった。
オレはといえば、時代遅れのテープレコーダーのように、ただ「待っていてほしい」と繰り返した。
蘭から戻って来たのは、うん、という短い返事。
それだけで、どうにか今日までやってこれたんだ。

コナンの姿でいたとき、頻繁ではなかったが、それでもときどきはメールや電話を入れていた。だが、こんなに長い間、音信不通になったのは初めてだ。
それでも、待っていてくれるだろうか?いや、待っていてほしい。
もう二度と、そんな思いはさせないから。


そんな自問自答を巡らせているうちに、やっと自宅に到着した。
染み付いているであろう病院特有の匂いを落とすため、軽くシャワーを浴び、適当にジーンズとシャツを引っ張り出して身なりを整える。
髪は濡れたままだが、そんなことにはもう構っていられない。



あいつに、、、やっと、蘭に会える。




話したいこと、言ってやりたいこと、してやりたいことが、ごちゃ混ぜになって順序を競っている。
だけど、1等賞は新一の中でとっくに決まっていた。

リビングの電話の子機を握りしめた手にも、自然と力が入ってしまう。
指の動きだけで間違いなく掛けられる番号を押し、機械的なコール音を数える。
1回、2回、3回、、、10回。
緊張して押し間違えたか?と思い、新一は、今度はきちんとボタンを見て、慎重に蘭の携帯番号を押した。
1回、2回、3回、、、10回、、、、20回。

留守電にはなっていない。
だから電話をとれる状況にいるはずだ。
それとも、、、意図的に電話に出ようとしていない?


ついに、愛想つかされたか。
一気に脱力して、新一はソファに倒れ込んだ。背の部分に後頭部を乗せて、天井を仰ぎ見た。
蘭の身の安全のためとはいえ、自分自身の存在さえも消し去るような手段をとっておきながら、自分の用件が片付いたからといって、すべてが都合良く元通りになるとは限らないではないか。

電話する度、何だかんだ言って最後には心配の言葉を並べ立てていた、蘭。
そんな蘭を見上げる度、見えない距離にも負けない気持ちを小さい体に刻み込んでいた、新一。


蘭なら、きっと許してくれる。
それが自分勝手なエゴだと気付けなかったほど、蘭の母性を思わせる温かい愛情に包まれて、コナンでいることに、、、子供でいることに慣れ過ぎてしまったのだろうか?
体だけではなく、心までも子供に成り下がってしまったのだろうか?

新一がコナンでいたときを含めると、蘭にとってはそれ以上に長い、幾重にも不安の積み重なった日々。
この4ヶ月の空白は、新一の思うよりも、きっとずっと長かったのだ。


どこまでも優しい蘭の心が、できるだけ元気でいられるように、願った。
いつだって、何の変哲もないときだって、この気持ちだけは絶え間なく送り続けてきたのに。もう、届かないんだな。
蘭を泣かせるのも、その笑顔を曇らせるのも、このオレ自身なのだから。

新一は、左手に子機を握りしめたまま、右手で熱を持った両目を覆った。





突然、乱雑に玄関の鍵を開ける音が、工藤家の広いリビングに響いた。
特に動じるわけでもなく、新一はソファに頭を預けたまま、仰け反るようにして焦点の合わない視線を玄関へ投げた。午後の日差しと共に飛び込んで来たのは、何度も夢に、また実際に見てきた、蘭の姿だった。
息を切らし、頬が赤い。ドアに手を掛けて目線を彷徨わせたあと、1点を凝視して、そのまま微動だにしなくなった。

(なんだよ、蘭の奴、また泣いてんのか、、、?)

ぼんやりとそんなふうに考えて、新一は、えっ?と自分の目を疑った。
背もたれに片手をつくと、つい先日まで昏睡状態だった人の動きとは思えないほど軽快に、ひょいとソファを飛び越えて、玄関に、蘭の元へ駆け寄る。
そんなつもりは毛頭なかったのに、つい、大きな声を出してしまった。

「おまえ、どこに行ってたんだよ。さっき何度も電話したのにっ」

新一は蘭の両肩に手を掛け、2度3度と揺さぶった。蘭は無言で、そっと新一の腕に、頬に触れ、それからまだ息の上がる自分の顔に触れた。

「ほんもの・・・?本当に、新一、なの?」
「ああ、幽霊じゃないぜ?」

蘭の右手をとって、新一は自身の左胸に当ててやる。薄いシャツを通り抜けて、少し早めの、力強いリズムが蘭の手の平へと伝わっていく。
新一は、そのままの格好で蘭を抱き締めた。

この瞬間のために、いくつもの死線を越えて来たんだ。
もう、迷いやしない。

ちょっと順番が狂ってしまったが、最初に言おうと決めていた言葉を、蘭の耳元にそっと落とした。

「ただいま、蘭」
「お帰りなさい、新一」

笑顔と涙でごちゃ混ぜになった顔をそうっと上げて、蘭もずっと言いたかった言葉を新一に届けた。

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