深月さま
――― 新千歳空港。 「うわ〜v ねぇ、魚が居るよ、ホラホラ〜!」 到着ロビーの出口にある、大きな水槽を指差して、蘭ははしゃいだ声を上げた。 「・・・んな珍しいもんかぁ?」 新一は、少し呆れたような声でそれに応じる。 他に、水槽を覗き込んでいるのは、小さな子供ばかりだ。 なんだかおかしくなって、新一は吹き出した。 「前にも見ただろ?」 優作の取材旅行だ、バケーションだ、子供キャンプだ、と、もう、何度も北海道を訪れていた新一は、特にはしゃぐことも無く、冷静に、巨大な北の玄関の見取り図を思い浮かべる。確か、レンタカーのデスクは、右側の奥だったはずだった。 「ゆっくりなんて見てないよっ、だって、前に来たときは、来るときは電車で、飛行機は帰りだったから、ここには来なかったし、その前に新一と来たときは、時間が無かったし」 そういえば、小学生の頃に、有希子の思いつきで強制参加させられた“大自然は大きな学校!どさんこ子供キャンプ”なるものには、蘭も連行されたんだっけ、と、新一は苦笑する。人見知りが激しかった蘭は、新一から離れなくって・・・ 新一が、遠い記憶に思いを馳せている間も、蘭は話し続け、話題はいつの間にか、前回訪れたときに見た、出発ロビーの方にあった、カニのいけすの方に移っていた。 「はいはい、カニなら、これからいっぱい見られるから」 明日は小樽の方へ行く予定だ。 海産物なら、市場で生きたものが見られるし、安くて美味しいものも沢山ある。 とりあえず、車に乗るぞ、と、そこを離れようとする新一に、蘭が頬を膨らませて、付いていく。 「もう、寝起きの機嫌が悪いなんて、子供なんだからっ。大体、国際線ならともかく、1時間しかない国内線で、寝る?フツウ」 水槽ではしゃぐ人間に言われたかないな、と内心で苦笑しながら、新一は自衛の為に口を閉じ、さりげなく蘭のボストンバックを持ってやる。第一、昨日はガイドブックを読むのに、ほぼ徹夜だった。・・・これは、言う必要のないことだが。 開いた手を新一の腕に絡めて、文句を言いつつも楽しそうに笑う蘭と、そんな蘭に、面倒くさそうなそぶりをしながらも、当たり前のように寄り添う新一を、ロビーに居る人々は、優しい視線で見送った。 *** 高3の夏、といえば、受験の天王山、な、わけだが、そんな彼らは、涼しい場所で勉強をしようと、夏の避暑地、北海道を訪れた・・・わけではなく、現実逃避をしにやってきた。 正確には、優作の代理で、今度映画化が決まった、北海道を舞台とした優作の作品「嘆きのコタン(=集落)」の製作会議に、優作の代理で、出席するための旅行で、今回も、いつものように、突然、新一のところに、チケットが二枚送られてきて、否応無く、夏期講習をキャンセルし、北の大地へと飛んだのだ。 ちなみに、蘭の分のチケットは「コナンちゃんとして蘭ちゃんに迷惑をかけたお詫びに、ちゃんとエスコートしてあげなさいねっ」との言い訳が付いており、そんな文面を見てしまうと、蘭を北海道旅行に誘い出すのと、新一を製作会議に参加させるのと、どちらが本当の目的なのか、怪しいところだ。 『なんで俺が、父さんの映画の製作会議なんか出なくちゃいけねぇんだよっ』 自分で行け、自分でっ!と、海を越えたホットコールで、息子はその父である偉大なる推理小説家に叫び返した。 手紙が到着したのと同時に、いつのまに広まったのか、新一の携帯電話に、優作の担当だという組井から、電話が掛かってきた直後、新一は時差を計算することなく、父親に国際電話をかけたのだが、それを受けた、この混乱の元は、飄々としている。 『知っているだろう?私は今、連載を3本抱えているのだよ』 この現状のどこに帰国する時間があるというのだね? のほほんとそう返す優作に、「んな事情しるか」と、ぼやいてみたが、優作はそ知らぬそぶりで続けた。 『私は、新一を、私のファン一号だと自負していたのだが、違ったかね?』 『・・・』 そりゃ、そうだけど。 『新一のセンスを信頼しているよ。 出版者の連中より、よっぽど作品の本質を理解している。 スポンサーの利己的な事情で、私の作品を滅茶苦茶にされては困るのだよ』 もっともだ。そんな映画化なら、新一とて見たくはない。 言葉を返せずに居ると、では頼んだよ、と、通話はあっさりと切れた。 リングバックトーンを聞きながら、ふと、我に帰る。 (ちょっと待てっ、だからって、俺が会議に出なきゃならない理由にはなってねぇし、 大体、3日も前に札幌入りして、しかも蘭を連れて行く説明にはなってねぇぞっ) チケットを手に、新一は遠い目をして、そんなことを思ったものだ。 だが、つい先ほど、日本の出版社から、挨拶された以上、後の祭りというものだろう。 (組井さんっつったかな、あの担当の人。大変だよなぁ、父さんの担当じゃ・・・) 出来ることなら、受験生の息子とその幼馴染を巻き込まないでほしいものだ、と溜息をつきつつ、素直な息子は幼馴染の親の承諾を取るべく、再び受話器を取ったのだった。 *** 「ちょっと、大丈夫なの〜?」 不安げに助手席に収まった蘭は、運転席の新一を見やった。新一のほうはと言えば、地図にさっと目を通して、慣れた調子でサングラスをかけ、準備万端のようすだ。 「えっと、左、だよな」 「やめてよぉ〜」 運転は、決して不慣れではない。免許なら、16になってすぐに、アメリカで取ったし、その後は夏や冬に遊びに行くたびに運転していた。ただ、日本で、となると話は別で、18になってすぐに書き換えたが、運転はしていない。 (ウインカーとワイパーは・・・まぁ、間違えても、事故らないし) なんでもないのにワイパーが動いたら、蘭が不安がるだろうが。 (交差点で、入る車線さえ間違えなけりゃ、大丈夫だろ) 「私、保険、入ってたかなぁ・・・」 少し考えている様子の新一を見て、不安げに蘭は呟いた。 なんだかんだ言っても、新一のことを信用している蘭は、鼻歌を歌う余裕で、窓をいっぱいに開けて、緑を眺めていた。 「あ、ねぇ、あれ、なんだろう?・・・ホースパーク?」 「あぁ、牧場をベースにしたテーマパークだよ。ある程度の乗馬歴があるか、講習受ければ、園内を自由に馬で回れる。・・・まぁ、乗馬は3日目に出来るから」 「うん」 3日目は、日高の夏江さんを尋ねる予定だ。 「まぁ、とりあえず、今日は、ホテルに入って荷物置いて、札幌観光だな」 「は〜い」 専属のツアーガイドのように、てきぱきとしている新一に、クスリと笑みが漏れる。運転が怖いだの、事件を呼び込みそうだだの、文句を言いながらも、蘭はこのガイドを、信じている。そして、今まで、ただの一度も、失敗したことは無いのだから。 *** 蘭の望みもあって、すぐに市内へとは向わず、千歳からさらに南にある登別へと向った。温泉地として有名だが、熊牧場でも有名だ。 「こっちに居る間に、キタキツネにも会いたいな〜 出来れば、野生のっ」 熊はね、あいたいけど、野生であったら、ちょっと怖いじゃない?だから、ここに来たかったの。と、笑う蘭に、野生の熊に会ったことがある新一は、確かにあれは、蘭に会わせられないな、と苦笑した。 あとね、エゾリスでしょ〜、馬は見られるから〜、と、楽しそうにこれから出会えるであろう動物の名前を挙げている蘭は、バスケットを持ったお姉さんに声をかけられて立ち止まった。 「記念に、どうぞ〜」 そう言って、差し出された手の中には、一粒の、ダイヤ。 「えっ、いいんですか?」 驚く蘭に、にっこりとお姉さんは微笑んで、「イミテーションですけど、可愛いでしょ?」と頷いた。 「本物は、隣の彼に貰ってね」 「か、彼なんかじゃないですっ」 「・・・」 即答されてしまっては、新一の立場は無い。しかも“なんか”と来たもんだ。 驚いて、目をぱちくりするお姉さんに、新一は「彼女専属のツアーガイドなんです」と、苦笑を返す。その含みのある表情に、お姉さんは何か感じ取ったらしく、小さなダイヤを一つ、新一の手の中に落とした。 そして、こっそりと耳打ちする。 「本物あげれば一発よ、女の子って、そういうのに弱いんだからっ」 新一は何も言えずに、ただただ笑うしかなかった。 確か、元に戻ったときに、告白めいたものはしたはずだった。 ずっと、側に居る。もう、離れない、と。 (どこまで伝わってるんだかなぁ〜) 明後日の方向を見て、溜息をつく。 鞄の中に、随分前から持ち歩いている、小さな小箱と、その中身を思いながら、蘭の後を付いて歩く。 (骨太な男になれそうな気がするよ) もっとも、渡しそびれたのは、タイミングを失った自分の性なのだが。 (なにかと忙しかったからなぁ、あの頃) こっちについてから、はしゃぎっぱなしの蘭の後姿を見守っていると、ふいに、蘭が振り向いた。木漏れ日の中で、自分にだけ、向けられる笑み。 「熊、あっちだってっ!」 (・・・ま、悪くはないよな) ゲンキンなもので、この笑顔ですべて帳消しになってしまうのだから、全く、都合よく出来てるものだと、我ながら呆れてしまう。少しだけ歩調を速めて蘭に追いつけば、嬉しそうにまた歩き出す蘭。木の根に、足を取られてよろける。 「・・・ホラ、ちゃんと歩けって」 それを、当然のように腕を取って支えて、まっすぐ前を向いている新一に、蘭はこっそり頬を染めた。実は、浮かれて歩いているのは、 北海道に来たことが嬉しいだけではない。新一と、二人っきりの旅行。その先で、カップルに間違えられて、嬉しくないはずが、ない。それを態度に出さないようにしているのは、意識していることがばれて、距離をとられてしまうのが、怖いから。 蘭は、新一がコナンであった頃にうっかり言ってしまった言葉に対する新一の答えを、まだ、貰っていない。 「新一、サングラスかけると、どこかのやの字の人みたい・・・」 「・・・あのな?」 照れ隠しに、そう言ってからかえば、ライトベージュの少しつばの大きい帽子が降ってくる。一体どこから取り出したのだろう、と首を捻っている蘭の頭に、ぽんぽんと手を置く。 「お前もかぶっとけ。日差し、強いから」 この帽子は、有希子から、蘭へのプレゼントだった。 曰く。 『こっち(LA)ほどじゃないって言ったって、北海道は空気が澄んでて、日差しが強いのよっ!そうじゃなくても、蘭ちゃん、お肌白いんだから、絶対焼かせちゃダメっ!』 なんだかんだいって、工藤家にとっては、蘭は既に婚約者扱いである。特に有希子の蘭に対する執着は、息子そっちのけで可愛がる始末。 「え、こんな帽子、見たこと無いっ」 「母さんの道楽。付き合ってやって」 気にする蘭を放って先を歩けば、「ありがと」と、蘭が新一の腕をとった。 「熊のおやつだって〜」 (はは・・・、観光地の定番だな) 売られているそれを、観光客から貰おうと、後ろ足で立っておねだりする様子は、確かに可愛い。・・・可愛いのだが。 北の大地の食物連鎖の頂点に立つハズの彼らが、自然界に放り出されたとき、おそらく一番最初に狩られるであろう人間に、こうしておねだりする様は、僅かな哀愁を抱かせる。 楽しそうに、ニコニコと彼らにおやつをあげる蘭を見ながら、ふと思ってしまったのは。 (俺って、蘭の笑顔に操られてる、熊っぽいよな・・・) それでもいいと思ってしまうのだから、やっぱり、どうしようもないのだった。 *** 一通り見て回ると、満足したらしい蘭と、お土産を見て周り、札幌市内に戻るべく、車に乗り込んだ。来た時とは違う道を通り、途中支笏湖で休憩する。日が長いとはいえ、大分、日は傾いてきた。 「ホテルまで、あとどれくらい掛かるの?」 「ん〜2時間って所じゃないか?」 道が空いてれば、もっと早いだろ、と地図にざっと目を通す新一に、ペットボトルの麦茶を差し出し、窓の外の林と、その奥の湖に視線をやる。 「綺麗だね・・・日中だったら、林道とか散策したかったな・・・」 「一日目からあんまり動くと、後半ばてるぞ?」 「体力には自身あるもん」 「・・・そりゃ、俺も知ってるけど」 ついでに、オメェなら、熊に会っても大丈夫だろうぜ、と付け足せば、「なによっ」と、蘭の頬が膨らんだ。それを無視して、よし、行くか、と小さく呟き、エンジンをスタートさせる。 「なぁ、日高での子供キャンプ。覚えてっか?」 「小学校2年生のときのでしょっ?もちろん!」 夕焼けに赤く染まる湖から、視線を新一に戻して、苦笑する。 「だ〜れかさんが、探検だっ、とか言って林の奥に行っちゃうから、迷ったのよねぇ〜」 「・・・ちゃんと戻って来れただろうが」 登別で買っていた、温泉饅頭を食べながら、「どうせ偶然でしょ?」という蘭。 (・・・バーロ、ンなワケあるか) 幼い頃から、好奇心旺盛で、確かに色々と蘭を巻き込んだ。けれども、幼心に、絶対、蘭を不安にさせちゃいけないと、ある種のプレッシャーを感じていた。だから、ある程度確信がある範疇内でしか、蘭と一緒には羽目を外していない。 (まぁ、確かに、あん時は少し、焦ったんだけどな) 思い出して、苦笑する。 午後の自由時間に迷って、夕方まで戻れなかった。一応、林に入ったときから、木の幹に、ナイフで傷をつけて歩いていたのだが、蘭が、リスを追って駆け出してしまって、それを追ったため、印が途切れてしまったのだ。印を見つけたあとは、簡単に帰れたのだが、日がどんどん傾いて、暗くなる足元。泣きじゃくる蘭。 それでも、不安にさせたくなくて、絶対こっちだ、と、まっすぐ顔を上げて、蘭の先を歩いた。 「日高かぁ〜 あの山にも、行くんでしょ?」 「あぁ、せっかくだから、10年前のあの場所、ハイキングしようぜ」 うん、と嬉しそうに頷く蘭を横目で見ながら、今度こそ、迷わないようにしなくちゃな、と、心の中で呟いた。 *** 市内に入った頃には、日はすっかり落ちていて、ネオンやイルミネーションがとても綺麗だった。大通り公園にそって車を走らせ、時計台、テレビ塔など、ライトアップされている建物をさらりと周ってから、ホテルに入る。 優作が、部屋を取っておいた、と言っていたホテルは、大通り公園の側に数多く立ち並ぶビジネスホテル街から、少々離れたところにある、とても大きくてきれいなホテルだった。蘭をロビーに待たせ、フロントデスクで、名前を名乗ると、渡された鍵に、目を見張る。 「ご予約の工藤様ですね」 満面の笑みと共に渡されたカードキーは、綺麗なパステルピンクとホワイトの封筒に入れられている。隣でチェックインをしている人は、落ち着いた、ベージュの封筒。渡された封筒も、一つだし、なんとなく、嫌な予感がして、部屋を確認するべく、紙に視線を落とすと、教育の行き届いたフロント係は、にっこりと微笑み、「この度は、ご婚約おめでとうございます」と、予想を裏切らない答えが返ってきた。その手は、電報らしきものを差し出している。 口元が引きつらないように、注意して中を見れば。 『予算が無くて、一室しか取れなかったんだよ。 まぁ、楽しんで来なさい』 (・・・それが、男親の言う言葉か?・・・) (ってか、金なら腐るほど持ってるだろうがっ、このクソ小説家っ) (仮にも物書きなら、もっとマシないいわけ考えろってんだ) 頭の中を、沢山の文句が飛び交う。 分かっている。これは、わざと冷やかしているのだ。 軽く溜息をついて、なんだか様子がおかしいと、ビクビクしているフロント係に、空室状況を尋ねれば、そこは夏がシーズンの札幌。あいにく満室との返答が帰ってきた。 「あの、何か手違いをいたしましたでしょうか?」 「いえ、少々、親子間のコミュニケーションに問題があったようです」 苦笑と共にそう返せば、フロント係は首をかしげた。 まぁ、今、夏だし。最悪、車で寝ても、凍死なんてことはないだろう、と結論付けて、新一は蘭の元に戻った。 「随分時間掛かったね。何かあったの?」 「ははは・・・」 もう、苦笑を返すしかなく、新一は何も言わずに蘭の鞄を取った。 「部屋、結構上の階みたいだな」 夜景、見れるかな?と、言いながら、きょろきょろとエレベーターホールを見回し、朝食のビュッフェの案内などを見ている蘭。 「夜景が見たいなら、藻岩山、連れてくけど?」 「?」 「札幌が一望できる山。・・・明日、な」 今日は、少し体力とって置け、と言って、新一はカードキーを部屋のドアに差し込んだ。 新一は、ドアを開けて、絶句した。 まぁ、ベッドが一つなのは、最初から分かっていたから、新一は驚かなかったのだが、正直、それよう、にアレンジされているとは思っていなかった。オフホワイトの壁紙に、ピンクベージュのシンプルなベットカバー。少し近い距離に置かれた二つの枕の側に、モカブラウンのバスローブ。ランプシェードや、壁に掛かった絵が、センスのよさをさりげなくうかがわせる、いい部屋だ。 「うわ〜、なんか可愛いお部屋だね」 蘭は、幸いにも、この部屋が、普通だと思っているらしかった。確かに、全体的に、ふんわりとした色でそろえられてはいるが、押し付けがましい雰囲気は一切感じられない。だが、ライティングデスクの上に置かれたホテルのパンフレットを見ると、部屋のインテリアにうるさくない程度に取り入れられているサーモンピンクとピンクベージュは、“普通じゃない”のだということを物語っていた。そのパンフレットを、さりげなく引き出しの中にしまい、部屋に飾ってある、決して安くは無いはずの花の中に、埋もれるように添えられた、『Happy Engaged』のカードも、ポケットに隠滅する。 一方、流石の蘭も、ベッドが一つ、と言うのに気づいてしまって、内心焦っていた。 (端と端に寝れば、大丈夫よね。ものすごく、大きなベッドだし) (あ、でも、枕を離したら、新一、傷つくかなぁ?) (・・・別に、恋人同士じゃないんだから、いいのよね?) (・・・・・・どうしようっ) 「ねぇ〜 ちょっと、見てみてっ!クマとキツネのぬいぐるみがあるよっ」 蘭は、Welcome to Hokkaidoと刺繍されたクマとキツネのぬいぐるみを、誤魔化すように取り上げる。クマとキツネは、一枚のガラスを並んで持っており、どうやら、写真立てのようだった。 “二人の最初の旅行の思い出が、素敵なものになりますように” どうやら、ハネムーンのカップル用のプレゼントらしい、そのぬいぐるみの文句に、固まる蘭。 (やっぱり、そういう部屋なんだ、ここっ!) とりあえず、気づいていないフリで通そうと、蘭は心に固く誓った。 「私、先にお湯貰うねっ」 「・・・おぅ」 蘭としては、ただ、バスルームに逃げたかっただけなのだが、新一の内心はいささか複雑だ。 (・・・なんだかなぁ〜) 天井を見上げて、さて、どうやったら、自然に部屋を抜けられるか、と、考える。一応、コナンのキャリアは伊達じゃないが、元の身体に戻った今、どこまで自制が利くかは、正直自分でも分からない。大体にして、そんな風に悶々として夜を過ごしたくないし。寝不足になったら、色々、後に支障が出るし。無駄なトライアルは避けるに限る。そうでなくても、色々、そういう雰囲気になりそうになってしまうのだから。 支笏湖での、自分を気遣って、なにかと世話を焼きながら、心配そうに覗き込んでくる瞳とか。夜の市内を回る車中の蘭の、はしゃいでいた昼間とは打って変わって、穏やかな表情で景色を見つめる蘭の横顔とか。ふっと、抱き寄せたくなってしまう。 (恨むぜ、父さん、母さん・・・) 苦笑をもらしながら、荷物の整理をして、シャワーを浴びる用意だけ済ますと、地図とガイドブックを持って、窓際に置いてある椅子に座った。 膝の上に開いた、小樽のガイドブックに目を落とし、地図を確認しておく。そんなに込み入った道順ではない。ただ、駐車場の場所だけ確認しておけば大丈夫だろう。大体頭に叩き込んでから、ふっと、夜の札幌を窓から眺める。車の流れは後を絶たない。にぎやかな、北の都市。夜はやはり冷えるのだろう、二重になったガラスは、触れるととても冷たかった。 シャワーを浴びて、しっかり冷静になってから出てきたつもりだったが、「お風呂、空いたよ」と声をかけようとして、夜景を眺める新一に何も言えなくなってしまった。 長い足を軽く組んで、ゆったりと大きめの椅子に身体を預け、窓枠に肘を付いて外を眺めている。ガラスに写りこんだ表情は、少し疲れたのか、ぼんやりしていた。ふいに、遠くを見ていた新一の視線が、ガラス越しに蘭を捕まえる。 「・・・お風呂、空いたよ」 「・・・ん、サンキュ」 新一は、用意しておいた着替えなどを手に立ち上がった。ベッドの上に置かれたバスローブを手に取り、パジャマがわりの、ジャージとTシャツ姿の蘭に、バスローブを手渡す。 「やっぱ北なんだな。湯冷めしねぇように、羽織って置けよ」 「う、うん」 「あ、冷蔵庫に、コーヒー牛乳が入ってたぜ?」と笑いかけて、バスルームに消えていく新一を見送ってから、蘭は誤魔化すように、新一の座っていた椅子に座り、戯れにガイドブックを開いた。 お風呂から上がった新一は、荷物をまとめて、ジャケットなんかを羽織っている。 「ちょっと、どこかいくの?」 「・・・車で寝ようと思って」 「えっ!?」 「こんな部屋取ったの、父さんたちの悪ふざけだし。ソファも無いから、あと、車しかねぇだろ?」 そうそうだね、と、すぐに開放されるだろうと思っていた新一だったが、思わぬリアクションに、あっけに取られることになる。 「ちょっと待ってよっ。私、一人!?」 「・・・はぁ?・・・当然だろ」 「冗談言わないでっ!怖いじゃないっ」 (・・・いや、そちらこそ、ご冗談でしょ?) 一人なんて、絶対嫌だからねっ!と、涙目で言われてしまっては、逃げるに逃げられない。それにしても、ここまで完全に警戒されていないのは、悲しい。 「わぁったよっ!」 ったく、と、新一はジャケットを着たまま、バスローブをかぶる、という、不思議な体制で窓際の椅子にどっかりと座った。 「嘘、そこで寝るつもり?」 「他にどこがあるんだよ」 「だってっ」 そりゃ、蘭だって、意識はしている。しているけれど、だからって、自分だけベッドを使って、新一を追い出すなんて出来ないし。 (別に、恥ずかしいけど、だからって、どうってワケじゃないし) この考え方の差が、男女差なのだろうか。 (そんな酷いこと、できないよっ) 無理やりベットに連れ込んで、寝不足にするのと、ここで放っておいて、腰痛にするのと、どちらが親切なのかは、甚だ疑問だが、蘭の頭の中に、新一がベッドで眠った場合に起こる睡眠不足の害、と言うのは、全く想定されて無い。 「バカじゃないのっ、窓際なんて、冷えるのよ?腰痛くなっちゃうじゃないっ」 無理やりベットに引っ張って、新一を座らせると、蘭は反対側に回り込んで、布団にもぐりこんでしまった。布団から顔を出して、新一を軽く睨んでいる。 「寝るの?寝ないの?」 返答次第では、私も起きてるからね、と言わんばかりの様子に、新一は意を決して蘭の隣にもぐりこんだ。その様子を見て、にっこり微笑む、蘭。 「明日早いんだから」 「・・・そうだな」 答える声は、もう、自棄である。 「おやすみっ」 「・・・」 (眠れるのなら、な) 心の中でだけ答えて、新一はベッドランプを消した。 はぁ、と、隣から漏れる溜息を聞いて、蘭は一瞬びくりとした。「ったく。子供だなぁ」と、呆れている溜息ならばいいのだが、ベッドを譲ろうとしたことからも、新一が自分に気を使っているのは明らかだ。距離は十分開いているし、付き合いの長い幼馴染。子供キャンプのときなんて、同じ寝袋で眠ったじゃない、と、蘭なんかは考えてしまうのだが。 (・・・そうよ、別に、何も変わらないじゃない) 日ごろの態度から、新一が“そういうこと”を望んでいることは窺い知れない。だから蘭は安心しきっているわけで。疲れたのか、5分とたたずに、蘭は小さく寝息を立て始めた。 誤解している蘭はともかく、新一のほうは、溜まったものではない。しかも、意識がなくなった蘭は、背中に空いた隙間が寒かったのか、あろうことか新一に擦り寄ってくるではないか。 (ちょっと待てよ、おいおいおいっ) 蘭は眠ったようだし、このまま夜を明かすのは、精神衛生上よくないと判断し、朝までに戻ってる、あるいは、蘭より先に起きていれば、大丈夫だろうと、椅子に戻ろうとした矢先だった。腕をつかまれ、足を絡められ、逃げられない。 (・・・そういや、こいつ、人の足に足絡める癖があったよなぁ・・・) 思わず遠い目になり、子供の頃を思い出す。あの頃の俺、よく寝れたよな、と、無駄に感心しつつ、いや、そういう問題じゃないんだ、と突っ込む。 この旅行が決まったとき、旅行中に、幼馴染を卒業するか、もう少し先にするか、とても迷った。2人っきりの、お互いがお互いを頼るしかない状況で、万が一、告白が失敗した場合、残された日程が悲惨なことになるのは目に見えているからだ。 自分はまぁいいとして、蘭の心境を考えると、やっぱり、園子のところなり、英理のところなり、逃げ込める場所があるときに告白してやった方が、安心な気がした。よく考えてみれば、それは、蘭が拒絶することを仮定した場合なので、ある意味、前に蘭の気持ちを聞いてしまった新一からみれば、要らぬ心配である。 それでも、やっぱり不安なのが、恋愛というもので。蘭が別段自分を男として意識して眠ったりしない、この状況を見てしまうと、あの「だぁ〜い好き」発言は、幼馴染、兄代わりとしてか?と、疑いたくもなる。 (やっぱ、この旅行中は、止めとこ) (いや、でも邪魔されないっていう意味では、絶好のチャンス・・・) 思考がぐるぐる回り、益々目は冴えた。 (・・・怨むぜ、父さん、母さんっ) 漢字が、だんだんおどろおどろしくなって来たのは気のせいではない。 *** それでも、朝は、誰にでも平等にやってくる。 簡単な朝食を済ませ、早速小樽へ向って出発した。 「ガラス工芸でしょ?オルゴールでしょ?運河でしょ〜♪」 昨日と変わらずハイテンションな蘭。 一方の新一は、あくびを噛み殺し、サングラスをかける。 (朝日がまぶしいぜ、ったく・・・) 「新一って、枕が替わると眠れない人だっけ?」 車中の、運転しつつも、少し眠そうな新一を気遣わしげに除きこむ、蘭。 「・・・いや?」 その程度で眠れないようだったら、探偵なんか務まらない。なんども、家に帰れないことだってあったし。だが、眠れなかった理由が、まさか蘭に告白するかどうか、だった、なんて、説明してやるつもりはない。 「遠足になると、はしゃいじゃって眠れなくなるなんて、やっぱり子供ね」 「・・・そうだな」 もう、そう答えるしか、ない。 サングラスって、便利だな、と思いながら新一は運転に集中した。 タイミングよく、とんびがピーヒョロロ、と間の抜けた声で鳴いた。 *** 朝市は、とてもにぎわっていた。 水揚げしたばかりの魚が、ぴちぴちと発泡スチロールの箱の中で跳ねている。いけすの中では、カニ、あわび、うになどの高級な海産物が泳いでいた。 「空港のいけすより、いっぱい魚が入ってて、窮屈そうだね」 「そりゃ、見せるためのもんじゃねぇからな」 大きな、だだっ広い倉庫のような市場を、色々な海産物を見ながら歩く。磯の香りが、海に来たことを実感させた。 ここで朝ごはんを食べる予定だったから、ホテルではあまり食べてこなかった。ガイドブックにあった、安くて美味しい、という漁師の営むお店へと向う途中、蘭は、いけすから、タラバガニが脱走する現場を目撃した。 「やだ、誰も気づいてないよ?」 「・・・ってか、縛っておかねぇか?普通」 首を捻る新一。 「ちょっと私、捕まえてくるっ!」 「え、あ、おいっ!」 言うが早いか、蘭はもう2メートルほど進んでしまったカニに走りより、そのはさみの届かない甲羅を両手で掴むと、カニが脱走したいけすの持ち主である魚屋の主人に、カニを差し出した。 「あの、コレ、逃げましたけど?」 慌てて蘭からカニを受け取った魚屋のおじさんは、ちゃんと縛っておけ、と、後ろでアサリを袋詰めしていたおばちゃんにカニを放った。 「いやぁ、ホント、助かったよ。姉ちゃん、札幌の人かい?」 「いえ、東京から」 にっこりと返すと、おじさんは、ものすごく驚いた様子で、蘭を見返した。 「いやぁ、今時珍しいよ?生きたカニをためらいも無く捕まえる娘さんてぇのは」 なぁ、兄ちゃん、と、いつの間にか蘭の後ろに居た新一に、話を振る。 そうですね、と話を振られた新一が、苦笑で応じた。 「何度か、生きたカニ、頂いたことがあって」 「ほう、料理上手か。こりゃいい嫁さんになる」 大事にしなきゃダメだよ、と言われて、言われなくてもするつもりだ、と、内心で答える新一と、やっぱり「そんなんじゃないんですっ」と、即答する蘭。明後日の方向に、視線が泳いでしまう新一。 おじさんは、あっはっは、と豪快に笑い飛ばすと、おばさんがゴムバンドでしっかりと縛ったカニを受け取って、蘭に差し出した。拾いモンは拾ったモンのものさ、とおじさんは笑って、新一に冷蔵宅配便用の紙を差し出した。 「え、あ、そんな、結構ですからっ」 「いいんだよっ!兄ちゃん。姉ちゃんの親父さんのご機嫌も取らないと、な?」 ・・・的を得ているんだか、外してるんだか、分からない発言である。新一は、苦笑しつつそれに、探偵事務所の住所を書いた。てっきり断ると思っていた新一が、素直に住所書くのをみて、蘭が小さく、いいの?と聞いた。 まぁまぁ、と、笑って見せると、新一は紙とペンをおじさんに戻し、他に、毛がにを3杯と、うにといくらの瓶詰めを、同じ住所に送ってもらうように依頼する。 「あと、僕たち、朝食、まだなんです。おじさんの魚はどこでさばいてもらえますか?」 「おう、それなら、そこ、3ブロック行って、左の突き当たりの食堂に持って行きな!高っちゃんは、とにかく上手いからっ」 どれがいい?と、魚を指差すおじさんに、お勧めを、とだけ答えれば、袋の中にポイポイと活きのいい魚を放り込み、袋は見る見るうちに膨れてゆく。あまりのことに、普通にしている新一の横顔を、信じられない思いで見上げながら、蘭は、目をぱちぱちと瞬いていた。 結局、魚もおまけをつけてくれて、今日食べられない分は、カニと一緒に毛利家に宅配されることになった。日持ちする瓶詰めや干物をLAの自宅に送ってもらえるよう頼むと、おじさんは、「兄ちゃん、外人かいっ?」と、んなワケあるかっ!なことで驚いていたが。 市場を後にした新一たちは、教えられた食堂に向って歩いていた。 「なんか、すごいことになっちゃったね〜」 カニなんて、貰っちゃってよかったのかなぁ?それに、魚とか、貝とか、いっぱいつけてもらったし、と、まだ恐縮している様子の蘭に、新一が「送料の方が高いよ」と笑った。蘭はそれを聞いてハッとする。新一が、他のものを買って、宅配を頼んだのは、宅配料を払うためだったのだと気づいたからだ。 しれっとしているようで、やっぱり細かいところにまで気がつく注意力には、頭が下がる。探偵と凡人の違いかな、と一瞬思ったが、蘭は小さく首を振った。 「どうかしたか〜?」 「ううん」 (それは、新一が優しいからだよね) 『ありゃ、早々居ない、イイ男だよ。海の男の勘をナメちゃ〜いけない』 試食で気にいってしまった、甘く味付けされたイカを買い足したとき、おじさんは新一に聞こえないよう、蘭にだけこっそりと言って笑った。 『彼、なんだろう?』 『・・・そう、なれればいいんですけどね』 蘭が苦笑を返すと、おじさんは「大丈夫だろう」と、にっこりと笑った。 *** 食べきれないほどの海の幸で、すっかり満腹になった二人は、運河の側の駐車場に止め、運河沿いに町を散策した。個人のガラス工芸館を覗いたり、綺麗な町並みを眺める。途中であった、ガラス作りの体験を申し込んでから、時間つぶしに、大きなヴェネチアン・ガラス美術館を覗く。ヴェネチアン・ボートが置かれた、大きな館内に、所狭しと並んでいるガラス細工。 「うわ〜」 もう、入り口から目が輝いている蘭に、苦笑する。 「見てよ、こんなに細かいのっ!」 すごいよねっ!と、感心しながら見て歩く蘭だったが、ある一角でぴたりと歩みを止めた。そのコーナーは、ミルフィーユと呼ばれる工芸品で作ったアクセサリーを置いているコーナーだった。パネルで紹介されている、その工程を見て、すごく大変なんだね、と漏らす。千の葉っぱ、というその名前が示すとおりで、小さなガラスで出来たビーズを沢山並べて、くっつけ、研磨して作るそれは、沢山の花が並んでいるようでとても綺麗だ。 しばらく、眺めていた蘭だったが、特に買うことはせず、時間になったので、ガラス工芸館のほうへ移動した。 それぞれ作ったガラスのマグは、後日、仕上げをしてから、自宅に宅配になると言う。色々なお土産屋さんを見ながら、オルゴール堂のほうに向って歩く。 荷物が増えると予想されるオルゴール堂の前に、運河を覗きに道を渡った。古いレンガ造りの倉庫の風景に、少し古風な街頭がなじんでいる。運河に掛かる橋の一つの上に立ち、景色を眺める。海が近いせいか、風が強かった。 「寒くねぇか?」 「うん、大丈夫」 側でカンヴァスに向って、スケッチをしていたおじさんの絵を覗いて、素敵ですね、と微笑む。おじさんは、にこりともしないで、絵を描き続けていた。 「邪魔しちゃったかな?」 苦笑する蘭に、苦笑を返して、また景色に視線を戻した。 そのとき。 ザァっと、風が強く吹き、昨日に引き続きかぶっていた蘭の帽子が、風に舞った。 「!!」 すぐに気づいた蘭が、タンっと、軽い音を立てて、身軽に手すりの手前の石に飛び乗り、手を伸ばして帽子を捕まえたが、手すりから大きく身を乗り出した性で、バランスが崩れる。 「きゃっ」 「危ぶねっ」 慌てて蘭のウエストを捕まえて、自分と橋の手すりで挟み込む。 「バーロっ!何考えてんだっ」 「だって、帽子・・・」 「心臓止まったぞっ」 「・・・ゴメン」 身体を支え続けながら、手すりの中ほど分、高い位置に居る蘭の、申し訳なさそうな顔を見上げる。心配から声を荒げてしまったが、少し申し訳ない気持ちなって、オメェが無事ならいいんだけどよ、と苦笑した。ゴメンね、と、もう一度謝ってから、蘭は、顔を上げた先にある、先ほどよりまた一段高いところから見る景色に、目を奪われたようだった。 冷静になってみると、なかなか絵になる姿だった。帽子を押さえて遠くを見る、澄んだ瞳。帽子からこぼれた髪が、風になびき、太陽の光を反射して輝いていた。運河から、吹き上げてくる風が、蘭の白いワンピースの裾を、大きく弄び、蘭を見上げる位置に居る新一からは、真っ青な空に、蘭の白い服がくっきり浮き立って見える。傍から見ると、丁度、蘭の腰の低い位置を、新一が少し手を伸ばす形で支えていたので、まるで、新一が、空に舞い上がる天使を地上に引き止めているように見えた。 「すごい、キレー。ねぇ、運河の水の色、少し緑がかってるんだねっ!」 新一も登ってみなよっ!と、声をかける蘭を、新一がまぶしそうに見上げる。 「蘭・・・」 「ん?」 帽子を押さえたまま、顔を新一のほうに向けると、新一は、注意深く片手を蘭から離し、その分、足を絡めてしっかり蘭を固定すると、ポケットから、先ほど買ったばかりの、薄いラッピングペーパーに包まれた物を取り出した。夜中、無意識に新一に足を絡めて、新一を寝不足にした蘭だったが、新一の行動にどぎまぎしてしまう。 「な、何?」 注意深く、それを差し出す新一の手の中に、先ほど見かけた、ミルフィーユのイヤリングを見つけて、蘭が驚いた顔をした。 「嘘っ!何でっ!?」 「旅の思い出」 「そっ、そうじゃなくてっ!」 (なんで、分かったの?) 「・・・伊達に十数年側に居たわけじゃねぇよ」 蘭は実用性を考えてから、自分のものを買う。そうなると、今は学生で、あまりアクセサリーをつける機会が無いから、どうしてもアクセサリーに手を伸ばす回数は少なくなってしまう。蘭が休日に身につけているのは、友人や自分、英理からのプレゼントばかりだ。 そんな蘭だから、とても気になった、ミルフィーユも、諦めたのだ。 「だって、高かったでしょっ!」 「・・・そういう感想は、あまり嬉しくねぇぞ?」 今回、優作たちに、“蘭の接待費”というのを貰っていたが、これは別会計だ。例の“厄介な事件”解決後、協力謝礼として、FBIと警視庁の方から纏まった・・・リングを買っても、まだ余るほどの・・・お金をもらっている。 「似合うと、思ったんだよ」 ちょうど、Forget-me-not blue(忘れな草色)と呼ばれる薄い水色の小さな花がモチーフの、それほど大きくない、控えめなイヤリング。思えば、永遠の約束、と言えば指輪、という、推理のこと意外となると、およそ短絡的になってしまう思考で、半ば勢いのまま購入した指輪だったが、蘭がそれほど意識していないのならば、こんなものが丁度いいかもしれない。曖昧な関係そのままに、揺れる花。 「今日の空の青と、今の蘭のワンピースの白に免じて、受け取ってやって・・・」 新一が、ふっと微笑むと、蘭も微笑みをかえした。 「帽子、ちょっと持っててっ」 「あぁ」 蘭が、そのミルフィーユのイヤリングを気にいったのは、ミルフィーユ自体が持っている意味と、色のイメージだった。ミルフィーユはそれを構築している花型のビーズ一つ一つに幸せの願いが込められているのだと。そして、このビーズの色は、忘れな草色。花言葉は、真実の愛。 蘭は不安定な足場と手元に、細心の注意を払って、それを身に着けた。新一が、満足そうに笑って、「まぁまぁだな」と言う。 (こんなことされたら、大好き、って、言いたくなっちゃうね・・・) 「ありがと、新一。大事にするね」 (・・・やっぱり、いえないんだけど・・・) まぶしいくらいの笑顔を浮かべて、蘭は微笑んだ。 *** オルゴール堂で、園子たちに、オルゴールのキーホルダーをお土産にしようと決めた蘭は、キーホルダーの裏についている曲名のシールと、曲を、一つ一つ聴いて、一人一人に選んでいた。新一は、あまりに時間の掛かりそうな作業に、苦笑を残して、どこかに行ってしまった。 「だって、ちゃんと選びたいんだもん」 ぼそりと呟き、これ、和葉ちゃん好きそ〜、などと思いながら、曲を聴いていく。キーホルダーも一通り選び終わり、今回チケットを送ってくれた有希子と、英理には、おそろいで色違いの、オルゴールつき宝石箱を選んだ。 広い館内を見回すが、新一の姿は視界に無い。もう、と頬を膨らませて、ふと、誰かがねじを回して行ったらしいオルゴールが、鳴り出した。少し古いメロディー。先ほどキーホルダーコーナーにも、沢山あった曲だ。思わず、手に取る。 (SAY YES、か) ずっと側にいる、とは言ってくれたが、新一は蘭が言った言葉の返事をしていない。 『私、新一のことが、だぁ〜いすきっ』 謀らずしも、コナン(=新一)に言った、蘭の気持ち。 (こんなの、不公平じゃない?) 好きだというのは、勇気がいるのだ。もう一度自分から言うなんて、無理っ。 「Say, yes.」と、願って告白するのは、男の子だけじゃない。 「・・・鈍感」 「そんなに買うのか?」 「きゃっ!」 突然、真横から伸びてきた首に、慌てて蘭は手の中にあったオルゴールを置いた。 「も、もうっ!どこ行ってたのよっ!」 「二階。色々あって面白かったぜ?」 「へぇ〜、二階もあるんだ〜」 幸いにも気づかなかったらしい新一は、蘭がもっているカゴを受け取った。 「うわ、こりゃ、荷物送るしかねぇな」 「そうだね、昨日の分もあるし」 「土産だらけになりそうだなぁ・・・」 ぼやく新一を、笑顔で宥めて、外に出る。気づいたら、新一が全部の荷物を持っていて、慌ててその手から袋を取ろうとしたが、新一はさらりとそれをかわしてしまった。 「悪かったな、やっぱ、車で移動するべきだった」 新一の視線が、蘭の新しいミュールに行っていることに気づいて、蘭は首を横に振った。すこし、足を痛めていたのだ。普通に歩いていたつもりだったのだが、流石と言うか・・・バレていたらしい。 「新一のせいじゃないよ。昨日のうちから、「明日は歩くぞ」って聞いていたのに、考えないで靴選んだ私のせいだし」 それでも納得していないらしかったが、とりあえず、荷物は持つというので収まった。 ラベンダー色に染まる空と、運河沿いの街頭がつくる、ロマンティックな景色を走り抜けて、車は一路、札幌へ戻った。 「今日、ご飯何処で食べるの?」 「ん〜 行ってのお楽しみ」 「??」 「円山に、美味しいパスタ屋さんがあるんだと」 「へぇ〜」 「紙で包んで蒸し焼きにしたスープパスタが美味しいらしい」 「ホント、美味しそうだねっ!・・・って、そんなお店、ガイドにあったっけ?」 蘭は、お茶に手を伸ばす新一の横顔をみて、首を捻った。 「あぁ、こっちで会う予定の、スポンサー側の担当者に聞いた」 さらりとしたセリフだったが、それを聞いて、蘭は明日のことを思った。明日から二日間、新一は撮影舞台になるアイヌコタンで、スポンサーと、出版社、映画制作スタッフと現地のアイヌ文化保存協会などとの会議に、原作者代理、ということで出席することになっている。蘭は流石に付いていけないので、その間、先に日高へ行って、夏江さんの家でお世話になる予定だ。 (2人っきりの、最後の夜かぁ・・・) *** 一度、そんな風に考えてしまうと、色々と意識してしまうもので。 紙で、お皿ごと包み込んで、蒸焼きにされたパスタは、ものすごく美味しかったし、食後に連れて行ってもらった、藻岩山からの夜景も、とっても綺麗だったんだけど、何も思っていないように、飄々としている新一に、腹なんて立てて見たり。 (だって・・・ねぇ?) 藻岩山でのことを思い出す。 寒いだろ?と、ジャケットを貸してくれたのは嬉しかったんだけど、周りは、夜景を見ながら抱き合うカップルばかりだと言うのに、なんだか、少し距離をとって立ってるし。 誰も聞いてないのに、札幌の区画整理の話なんかしだして。 『札幌の町並みは、京都の条傍制をモデルにして作られたから、碁盤の目状なんだぜ?』 そりゃ、へぇ、とは思ったけど。 しかも、と、ベットランプの方を向いて、横になったまま、心の中で溜息を漏らす。 (今日は、当たり前みたいな顔をして、隣にもぐりこんでくるし) 乙女心は複雑なのよ?と、蘭は内心愚痴を漏らした。 (バカみたい・・・寝よ) 実際、眠いのだ。 履きなれない靴で長時間歩き、さらに痛めた足を無意識に庇って歩いた為、足首に負担がかかっていたらしく、ホテルに着いたときは、鈍く痛むようになっていた。 それに気づいた新一が、ミニバーの中から、ワインを取り出して、眠り薬代わりに、と、ほんの一口分、グラスについで差し出してくれたのだ。 明日は日高か〜と、思考を逸らしながら、蘭は目を閉じ、眠ろうと試みた。 一方、この旅行中は、普通に過ごそうと心に決めていた新一は、よし、最終日も無事クリアだな、などと、意味不明なことを考えていた。 大体、自分の後ろで寝息を立てている幼馴染は、危機感が薄すぎるのだ。夜景を見ながら、あんなに嬉しそうな顔をして、綺麗だね、なんて、真っ直ぐに瞳を覗かれた日には、グラグラしたって、誰も責めないだろう。 (さ〜て、徹夜二日目かぁ・・・) まぁ、明日から会議だし、一応、もう一度優作の書いた原作のほうを読んでおくか、と、本を手に取った。ベッドランプは、蘭のいるほうにしかなくて、まぶしいかな?とも思ったが、一度寝たら起きない蘭のことだ、大丈夫だろう。 暗闇に慣れた目で、蘭の身体のふくらみを見分けて、乗り越えるように手を付く。 と。 「きゃっ!」 「?」 蘭が小さく悲鳴を上げる。何かあったのかと、そのまま手を伸ばして、ベッドランプの明かりをつけて、蘭を覗き込んだ。 「どうした?大丈夫か?」 ばっ、と、布団をかぶって顔を隠した蘭の耳は、オレンジ色の淡い光の中でも分かるくらい、真っ赤で。熱でもあるのか?と、蘭の顔にかかった布団をよける。 「な、なな、何してるのよっ?」 蘭は、自分の身体に覆いかぶさるような位置から動かない新一に、とうとうそんな言葉を発した。 「・・・いや、電気つけようと思って」 何をそんなに慌ててるんだ?と、思っていた新一だったが、すぐに自分たちのキワドイ体勢に気づいた。そして、眠っていると思っていた蘭が、起きていたことにも思い当たり、さらに、さっきの「きゃっ」発言。 (もしかして・・・) 思い当たったら、おかしくておかしくて、仕方なくなる。 新一は、ベットランプ側に付いていた両手を、蘭をはさむように置き換え、蘭の身体に負担が行かないようにと伸ばしていた腕を、わざと曲げて、顔を近づけた。 益々真っ赤になる蘭。 「ちょっ」 「意識してたんじゃん?」 「な、ななっ!」 な〜んだ、と呟く新一に、蘭は何も言えないまま、固まっている。 「俺、てっきり男として認識されてないんじゃないかと思ってた」 新一の言わんとすることが分からなくて、きょとんとする蘭の額に、キスを落とす。 「参ったな、こんなことなら、きっちり襲っておくんだった」 「ば、ば、バカっ、何考えてんのよっ」 こういうこと、と、唇が重なる。 (えっ、えっ、嘘っ) けれども、それは触れただけですぐに離れて行った。 唇を手で押さえて、信じられない、という表情をしている蘭に、新一はにっこりと笑って見せた。すると、見る見るうちにあふれ出す涙。 「酷いっ」 「へっ?」 キスしたら、泣きながら、酷いと言われて。 (あれ?俺、もしかして、勘違いした?) 慌てる新一に、蘭は手で顔を覆ったまま、涙声で続けた。 「好きって言う前に、キスしたっ」 (なんだ、そりゃ?) とりあえず、嫌がられているわけではなさそうだ。 「告白されてないのに、心の準備なんて、ないっ」 告白は、したつもりだったのだが・・・ (やっぱ、抽象的過ぎたか・・・) 伝わっていなかったことに苦笑して、新一は悪かったよ、と謝った。 そのまま、蘭を柔らかく抱きしめて、耳元で、ささやく。 「蘭がずっと好きだった。これからも、ずっと、ずっと、側に居てください」 蘭はコクコクと頷いて、新一の背中に手を回した。 自分に回された腕の柔らかさと暖かさに、幸せをかみ締めながら、そうしていることしばし。この展開は、このまま・・・っていうのもアリですか?と、新一は邪なことこの上ないことを考えていた。 だんだん、蘭の身体から、力が抜けていく。 そっと、身体を離して、「あのさ、蘭・・・」と、顔を覗き込んだ新一は、脱力した。 「・・・って、寝るんじゃねぇよ」 (今頃アルコールが回ったか・・・) 遠い目をして、蘭を布団の中にきちんと戻す。 まぁ、ある意味、よかったのだが。 (俺、危なかったよな、今・・・) 冷静になるにつれて、血の気が下がるのと、やっとお互いの気持ちが確認できて、嬉しいので、複雑な気持ちだ。それでも、やっぱり疲れていたらしく、蘭の身体を抱きしめながら、ふっとやってきた睡魔に、そのまま身を任せることにした。 *** ―――札幌駅 「じゃあ、2日後なっ」 「事故らないでよ?」 「そっちこそ、迷うなよ?」 苫小牧で乗り換え、日高本線だからな?と、念を押す。 「小学生じゃないんだから、行けるわよっ!」 あ〜、そうだといいんだけどな・・・と、曖昧に返事をする新一の後頭部を、べしりと叩く。もう、昨日の夜の雰囲気は、かけらも残っていない。 (まさか、アルコールが入ってたせいで忘れてる、とかいうオチじゃねぇだろうな?) 新一が不安になるのも、頷ける。 実は、蘭は、昨日の今日で、どう振舞っていいのか分からず、一時的にとはいえ、別行動になることを、内心で喜んでいた。 朝、新一よりも早く目が覚めた蘭は、抱きしめられて眠っていたことに気づき、慌ててその腕から抜け出して、火照る顔を押さえて、しばらくうろうろしていたのだ。 ・・・もちろん、告白も忘れてなどいない。 (まともに顔が見れないよ〜) どうしても、昨夜の、真剣な表情を思い出してしまって。 (どうしよう・・・) 「じ、じゃあねっ!」 「あ、あぁ・・・」 発車のベルに、誤魔化すように大げさに手を振って、蘭は電車に飛び乗った。 3時間ほどの電車の旅の末に、蘭は日高にたどり着いた。途中の車窓からは、どこまでも広がる草原と、馬が見え、澄んだ空気が、電車を降りた蘭を迎えた。 「蘭さんっ!」 駅を出ると、すぐのところで、夏江が出迎えてくれた。 車から駆け寄ってきてくれる夏江に、蘭も自然と笑顔になる。 「お久しぶりです!」 「ほんと!元気?」 「はいっ」 「さ、牛クサイ車だけど、どうぞ〜」 きっと財閥の争いから開放されて、北海道で幸せに暮らしてきたのだろう、夏江の笑顔は、蘭が知っている笑顔よりもずっと輝いていた。 それとも、その幸せは、好きな人と永遠を約束したからだろうか。 (結婚、か・・・) ふっとよぎった、新一の顔に、顔がさっと赤くなる。 (ば、ばかっ、何考えてるのよっ!) 「蘭さん?」 蘭がハッとしたときには、車に乗り込んで、何か蘭に話しかけていたらしい夏江が、返事のない蘭を不思議そうに覗き込んでいた。 「え、あ、なんでもないですっっ!それより、ご迷惑じゃなかったですか?突然押しかけてしまって」 慌てたように話しをつなぐ蘭に、夏江は苦笑しながら、アクセルを踏んだ。 「ううん。むしろ嬉しいくらいなのよ。ほら、私たちは生き物と生活してるでしょ?そうなると、家とか、長くあけるわけには行かないから、友達とか、会いに来てもらわないと会えないのよ」 だから、彼とこんなふうに旅行できる蘭さんがちょっぴりうらやましいな、と、夏江は笑った。 そういえば、牧場経営のノウハウを習得するため、婚約直後から慌しく北へ渡った夏江と武は、新婚旅行に行かなかったのだと、手紙に書いてあった。 「・・・さっき、名探偵の彼のこと、考えてたでしょ」 「えっ!?」 話が突然、新一へ飛んで、蘭は驚いて顔を上げた。 夏江が首をかしげながらしばらく蘭を見つめて、にっこりと笑う。 「どうして分かったんですかっ!?」 「ふふ・・・今回は「彼なんかじゃないです!」、じゃないんだね」 「あ・・・」 まるで園子のような切り替えしに、思わず口篭ってしまう。 「理由は、なんとなく・・・かな。あのね、今朝、彼から電話があったときに、“あぁ、この人は、ものすごく蘭さんのことが大事なんだなぁ”って思ったの。すっごく大事にしてるなって」 「で、電話っ?」 「うん。「よろしくお願いします」って」 「///」 「それにね・・・」 夏江はそこで、意味ありげな間をおくと、柔らかく微笑んだ。 「・・・蘭さん、前と全然顔が違うもの」 「あ、太ったんです、ちょこっと・・・」 やっぱり、顔に出てるかなぁ?と、バックミラーに顔をうつしている蘭のしぐさに、夏江は一瞬呆けてから、肩を揺らして笑った。 「恋する乙女の顔してる、ってこと!」 *** その夜は、夏の間、泊りがけで牧場の手伝いに来ている、北大獣医学部の学生さんたちも交えて、にぎやかな食事になった。 「工藤君が来るの、いつだっけ?」 「えっと、明後日の夕方です」 「工藤君?」 一人の学生が“まだ誰か来るんスか?”と尋ねると、夏江はにっこりと微笑んだ。 「えぇ。工藤新一君。蘭ちゃんのれっきとした彼氏。 だから、蘭ちゃんに手出しちゃダメよ?」 「そんなつもり無いですって!」 聞いた学生が苦笑した。 「工藤新一って・・・あの、高校生探偵の名前と同じなんですね」 「・・・」 蘭が顔を真っ赤にして何も言えずに居ると、その様子を見て、夏江が「本人よ?」とカバーする。 「マジっすか!?」 わぁ〜あとでサイン貰って置こう、なんて言っている学生をよそに、一人箸を止めて百面相する蘭を、夏江が見つめていた。 「蘭ちゃん、どうかしたの?」 夕食の後片付けを手伝っていると、不意に夏江が口を開いた。 幸い、男性陣は、出産間近の牛を交代で見張る為に、各自部屋に戻って休んでいる。 かしゃかしゃという、食器のなる音が止まって、水音が静かに二人の間を流れる。 蘭は逡巡してから、困ったように笑った。 「工藤君がらみでしょ」 喧嘩でもした?と、笑う夏江に、蘭はゆっくりと首を振った。そして、ポツリポツリと、昨日の出来事を話す。新一の気持ちがはっきり分かって嬉しい反面、戸惑っていることを。 「これから、どんな風に変わっちゃうのかなぁ、って」 「変わる、か・・・」 キュッキュッと、最後のコップを拭いて、食器棚に戻すと、夏江は首をかしげながら呟いた。 「私は、悪いことじゃないと思うけどなぁ〜。私も、武さんにプロポーズされたときは、色々怖かったよ?環境も、立場も、全部変わっちゃうわけだし。でも、大事なところは変わらないんだよ?ううん、むしろ分かるようになるから・・・」 夏江は内緒話を打ち明けるように、蘭の耳に口を寄せてささやいた。 「それまで以上に、私のこと、大切にしてくれるのを、守ろうとしてくれるのを・・・」 言ってから、これ、内緒ね?と、顔を赤らめる。 「大事にされてるな、って思うから、大事にしたくなるの。大切で、大切で、離したくなくなる。どんな障害だって乗り越えてやるっ!って気になるわ。思いが通じ合ってるっていう確信があるだけで、女の子って随分強くなれるものなのね」 首をかしげる蘭に、夏江はにっこり笑った。 「決めたっ!明日、早朝乗馬ね?」 「え?」 「悩み事があるときは、自然に帰るのが一番よっ」 *** 宣言どおり、夏江は翌日、蘭を乗馬に連れ出した。 牧場の敷地を、のんびりと馬の背に揺られて、風に吹かれて歩くのは、気持ちが良かった。 「どう?全部吹っ飛ぶでしょ?」 走ると最高なんだけど、と夏江が言うと、蘭が慌てたように手綱を引き締める。 「冗談よっ!このまま、まっすぐ行くと、日高自然の家キャンプ場に着くんだけど、どうする?沢まで行こうか〜 今日、天気いいし」 「え?自然の家キャンプ場って、この近くなんですか?」 「うん、あの山全部だけど」 夏江が、進行方向の緑を指差す。 「小川沿いの林の散策コースがこの季節きれいよ?おすすめスポット」 「行ってみてもいいですか?」 「もっちろんv」 何かあるの?と尋ねる夏江に、蘭は子供キャンプの話をした。 「もう、方向音痴って馬鹿にされないように、予習しておこうと思って」 「ハートベルがちゃんと覚えてくれてるから大丈夫よ!今度新一君と来るときも、一緒に来ればいいわ」 子供の身長で見た、あの頃の林と、馬の背から見る、開けた林は様子が違ったけれど、日高の自然は、あの頃と変わらず蘭を優しく包んでくれる。蘭の乗っているダップルグレーの馬、ハートベルは、大人しく、前を行く、夏江さんの馬を、追いかけてくれるので、蘭は静かに目を閉じて、鳥のさえずりと葉擦れに耳を傾けた。 前にここに来たときは、自分の身長よりも高い草を掻き分けて、消えそうになる新一の背中を、夢中に追いかけていた。 今も、自由奔放に走り回る大好きな背中を、置いていかれないように追いかけている。 『蘭がずっと好きだった。これからも、ずっと、ずっと、側に居てください』 (大人しくなんてしていないくせに) 蘭はクスリと苦笑した。 『ホラ、手ぇ貸せ。ったく、どんくせぇなぁ』 小さな手に引かれて、日の光に煌く小川を飛び越えて、新一が目指す、素敵な場所へ。 どんなにやんちゃに走り回っても、何時だって、“キラキラ”を共有してきた。 いつだって、その腕を蘭のほうに伸ばして。 きっと、これからも・・・ ガサガサっ! 「きゃっ!!」 「っ!」 突然、飛び出してきたキタキツネに驚いて、二人の馬はそれぞれパニックを起こしてしまった。夏江はどうにかコントロールしたものの、ハートベルは前足を上げるように跳ね上がり、蘭はそのまま後ろに振り落とされてしまった。 「蘭さんっ!」 「った〜」 「大丈夫っ?」 夏江は、ひらりと青鹿毛の馬の背から飛び降りて、ハートベルの手綱を捕まえると、蘭に駆け寄った。 「ごめんなさいっ!怪我はない?」 「大丈夫です。私も、ちょっとボーっとしてて・・・」 土を払って、立ち上がり、心配そうに覗き込んでくる夏江に笑顔を向ける。幸い落ちたところが良かったため、服が汚れる程度で済んだ。 「ゴメンね、姫、驚いたよね・・・」 笑顔でハートベルの鼻を撫でる様子を見て、夏江もほっと一息ついた。 蘭が、新一に貰ったイヤリングをなくしたことに気づいたのは、その夜だった。 *** 「お疲れ様でした〜」 毎食に開かれる地元観光局の接待に継ぐ接待と、製作会議、撮影の舞台を回って、再び会議。二日目にして、新一は既に疲労困憊だった。普段から見えすぎるきらいのある新一だが、こうもあからさまに先方の思惑を見せられては、苦笑するしかない。 出版社から来ている組井が、よく優作を理解しているのが、唯一の救いだろう。 予定では、明日の昼にここを出る予定だったが、もう、一刻も早く出たい気分だ。 (元々厄介なスポンサーだと分かっていて押し付けやがったなっ!) 「くっそぅ〜恨むぜ、親父っ」 本旅行、すでに数回目のセリフをはきながら、当てられた部屋のベッドに倒れこむ。 (何してっかなぁ〜 蘭のヤツ) 電話で確認すれば手っ取り早いのだが、あの告白の直後に・・・しかも、そのまま襲いそうだった・・・どう切り出してよいのやら、優秀な頭脳をもってしても浮かばず、結局昨日もかけられなかった。 ベットの上でごろごろしながら、もやのかかったような不安に、眉を寄せる。 昼食辺りから、何かが喉に引っかかっているような気持ちの悪さを感じていた。 (慣れないことして、疲れてんのかな) そう位置づけて、新一はシャワーを浴びに、立ち上がった。 ところが、もやもや感は、よく早朝、疲れているはずの新一を夢見の悪さで叩き起こすくらい、悪化していた。大体、こうなるとろくな事が起こらないのだ。 時計をちらりと見れば、早朝5時。 (まぁ、牧場だし、朝は早いよな・・・) 新一は意を決して、蘭の携帯に電話をかけるが、コール音がむなしく響くのみ。 (やっぱ、まだ寝てるか・・・) そう思ってみても、胸の中の警報が鳴り止まず、夏江にもかけてみるが、誰も出ない。 「・・・」 新一は逡巡してから、再び電話を取る。 「もしもし、組井さん?工藤です。おはようございます」 まだ寝ぼけた声の出版社のスタッフに、申し訳なく思いながらも、これから帰ると告げると、相手はとたんに目が覚めたらしかった。 「今日は、最終確認だけでしたよね?それならば、優作に直接確認を取った方がいいかと思いますし。LAのホテルの電話番号、ご存知ですか?」 「はい。・・・ですが、工藤君?」 「急なことで、本当に申し訳ないのですが、あとはよろしくお願いします」 「あっ、工藤君っ」 組井の慌てた声を聞きながら、通話をきると、新一は慌てて身支度を整え、ホテルを発った。 阿寒湖から、日高までは、かなりの距離がある。僅かな焦りを感じながら、新一はアクセルを踏み込んだ。気持のいいはずの、早朝の北海道を、わき目も振らず、ただ疾走する。 自慢じゃないが、こと、蘭に関しては、悪い予感、というのが良く当たってしまうのだ。この心配が、杞憂に終わってくれればいいと願った。 *** 一方、日高の牧場では、夜中の3時から、牛の出産が始まってしまって、全員出動の大騒ぎだった。子牛が無事に初乳を飲んで、ほっと一息ついたのが、午前9時。 「ゴメンね、みんなおなかすいたでしょ、今ご飯作るから〜」 夏江はそう言って、汚れた手を誇らしげにひらひら振って母屋に戻ったが、まもなく戻ってきた。 「なんか、蘭さんが作ってくれてたみたい。ここは、もう武さんに任せて、みんな朝ごはんにしましょう?蘭さん、料理上手なんだから」 大学生に声をかけて、さっきまで出産を真剣なまなざしで見守っていた蘭の姿を探す。 「あれ?武さん、蘭さん見なかった?」 「ん?さっきまで居たんだけどなぁ・・・」 2人がきょろきょろと牛舎を見回していると、後片付けをしていた星野という学生が、「蘭さんなら、キャンプ場に行きましたよ?なんだか探し物があるとか」と言った。 「え?」 「今朝、夏江さんに、馬装頼まれてたの思い出して、ハートベルとジュピター、馬装したんスよ。いや、よっぽど僕、付いて行こうかと思ったんですけど、蘭さんが大丈夫って」 「それ、何時の話?」 「えっと、8時ちょっと前かな?」 顔をあわせる、武と、夏江。 止まっていたのは、数秒だった。 「武さんっ、工藤君に連絡してっ」 *** 交通標識に、日高の文字と馬の絵が混じりだした頃に鳴り出した携帯電話は、武からだった。話の内容に、思わず額を押さえる。 (あの馬鹿は、方向音痴っつぅ自覚はねぇのかよっ!) 「今、みんなで手分して探しています」 「お手数をおかけします」 「いいえっ、こちらの不注意で・・・申し訳ないです」 簡単に状況を説明してもらって、通話を切る。嫌な予感は当たるもんだと、新一は眉を寄せた。 事前の調べで、夏江の牧場の裏にあるキャンプ場が、11年前のキャンプ場であることは分かっていた。つくづく縁があると苦笑する。 新一が牧場に着いたとき、丁度、夏江が、自身は青鹿毛の馬にまたがり、ダップルグレーの馬を引きながら、戻ってきたところだった。 「工藤君・・・」 「見つかりましたかっ!?」 ゆっくりと首を振る、夏江。 「昨日一緒に行ったコース沿いには居なかったの。どこかで道を外れちゃったのかも・・・ハートベルが、林の外でうろうろしてたから、捕まえてきたんだけど。・・・どう?武さん」 携帯電話で、蘭を探している大学生たちに連絡を取っていた武に、夏江が話を振るが、武も首を横に振った。 「せめて、蘭さんが携帯もって行ってくれればよかったんだけどね。小川沿いには居なかったよ」 「そう・・・」 そんなに大きい山じゃないんだけど、警察に連絡した方がいいかもしれないわね、と、眉を寄せる夏江に、武が頷く。 「あの、その子お借りしてもいいですか?」 新一は夏江が手綱を持っていたハートベルを指差した。 「え、いいけど・・・」 「君も山に入るのかい?」 「ご迷惑はおかけしませんから。それに・・・」 じっとしていられないんです、と、苦笑する。 夏江から受け取った手綱を、馬の背に回し、軽い足取りでその背中に飛び乗る。 「夏江さん、どうして蘭が一人で出かけたか、心当たり、ありますか?」 新一に問われて、夏江は逡巡してから、イヤリングを探しに行ったんだと思う、と答えた。 「イヤリング?」 「薄い青色の、小さなお花のヤツ。昨日、林で、落馬しちゃって、そのときだと思うんだけど」 (・・・バカっ) 新一は、小さくした打ちして、そのハプニングがあった場所を簡単に聞くと、「一時間以内に、必ず一度、連絡します」と視線をキャンプ場のほうへ向けた。 「気をつけてね?」 安心させるように、にっこりと夏江に微笑んで、新一はハートベルの鼻を内側にむけ、外側の腹を軽く蹴る。馬は軽やかに駆け出した。 *** (あぁ、今、バカって声が聞こえた気がする・・・) 蘭は足元に目を凝らしながら、緑の生い茂る林を進んでいた。時計を見れば、既に10時を回っていた。ハートベルを借りたのが、8時ちょっと前だったから、今頃牧場は大騒ぎだろうし、新一にだって連絡が回っているに違いない。 牛の出産に立ち会った後、蘭は、一様に疲れた様子のメンバーを気遣って、朝食を用意し、星野が馬装をしているのを見つけて、ハートベルを借りたのだった。夏江には声を開けようと思ったのだが、忙しそうに動き回る様子を見て、つい、言いそびれてしまった。昨日落馬をした場所が林に入ってすぐの場所だと思っていたため、ハートベルを林の入り口につないで、そこからは歩いてきた。だが、気づいてみれば、林というより、既に森で。道も随分細くなっている。こんな景色は、知らない。イヤリングを探して、下を向いて動き回ったため、蘭はあっという間に道に迷ったのだ。 『切り株を見れば、方角が分かるんだぜ?』 11年前、同じ森で迷ったときは、新一が一緒だった。 植物の名前、食べられるキノコ、鳥の声で、それがどんな鳥か、ひたすら解説して、蘭の不安を紛らわせてくれた、小さなレンジャーは、今隣に居ない。 片方、ポケットに残っているイヤリングに、そっと触れた。新一に貰ったばかりで失くしてしまったというのは嫌だったので、どうしても、午前中のうちに見つけておきたかったのだが、もう、きっとバレているに違いない。 「怒られるだろうな・・・」 再び、視線を足元に戻す。 前を見てしまうと、あまりに違う景色に、不安になった。うっそうと茂る木々が、太陽の光を遮っているのか、昼間だというのに薄暗い。イヤリングを探すことに集中して、極力帰りの事は意識から追い出した。分かっている。ここから一人では、帰れない。戻った方がいいとは分かっていたが、もう、自分がどの方向から来たのかも分からなかった。 『迷ったら、川沿いに、下るんだ。開けた土地を歩けば、見つけてもらいやすくなる』 サバイバルの講習を施しながら、真っ直ぐ蘭の前を歩いていた新一の後姿は、その当時は蘭よりも小柄だったにもかかわらず、大きくて頼もしく思えた。 だが、せっかく当時の新一のアドバイスを思い出しても、一度通りかかった小川にも戻れそうにない。 「・・・っ」 (バカっ、泣くなっ!) 「泣くと、体力消耗するぜ?」 『泣くなっ!体力消耗するぞっ?』 そう、小さい頃の新一にも言われたじゃない・・・って、え? 「・・・なんで?」 (だって、まだ、午前中・・・) 会議は、お昼に解散だったはずだ。 「虫の知らせ」 新一は不機嫌そうに、汗だくのハートベルの首を愛撫しながらそれだけ呟くと、ひらりと馬から下り、蘭の目の前までずかずかとやってきた。 その瞳は、完全に怒っている。 「ったく、こんな奥まで入り込みやがってっ!迷ったことに気づいてからも動いただろっ!?分かってんのか?夏江さんや武さんにどれだけ迷惑かけたと思ってるんだっ!?」 「・・・ごめんなさい」 ぎゅっと、ポケットを上から握り締めて目を閉じる蘭に、新一はふっと肩の力を抜いた。この様子では、どうやら“探し物”はまだ見つかっていないらしい。とにかく、無事でよかった。 新一は思わず蘭を軽く抱き寄せる。 「俺のアドバイス、覚えてるだろうなって思ったから、最初に川沿いを探したんだ。・・・居ないときは焦ったぜ?怪我して動けなくなってるのかと思った」 なんともなくて安心した、と、小さく呟いてから蘭を開放すると、新一は蘭の手を握ったまま、携帯電話を取り出した。 「あ、もしもし、夏江さん?俺です。蘭、見つけました。・・・はい、元気です」 てきぱきとした口調を聞いていると、先ほどまで恐ろしく見えた森の中も、すがすがしくさえ感じる。あまりの変化に自分でも驚いてしまう。 きっと、このまま連れ戻されるのだろう、と思っていると、新一が「ちょっと寄り道しますけど、必ず帰りますから、心配しないでください」と断るのが聞こえた。携帯をポケットにしまって、再びハートベルにまたがると、さっと自分のほうに手を差し伸べる。 「オメェがコイツに落とされたところ、ちょっと、ここから遠いんだ」 「えっ・・・」 「ホラ、早く手、貸せ」 ぶっきらぼうに差し出される手は、あの頃よりずっと逞しくなっていて、軽々と自分を引き上げてくれる。 新一が「オメェ重いし、姫の負担になるから並足な?」と笑って、軽く舌鼓を鳴らすと、姫、ことハートベルがゆっくりと森の中を歩き出した。 ゆったりと伝わる、馬の足並みと、入り口付近に戻ることで明るくなった林、そして何より、すぐ後ろのぬくもりに、張っていた肩の力が抜けるのを感じた。昨日までは、今度会うときはどんな顔をして会えばいいのか悩んでいただけに、ちょっと拍子抜けしてしまうのだが。 ふと、後ろから回されて、手綱をさばく手の薬指が、赤く擦り剥けている事に気づいた。 「これ・・・」 「え?あぁ、手綱で刷れたかな?グローブしてねぇからなぁ・・・まぁ、気にする程じゃねぇよ」 でもっ、と口篭る蘭に、ペットボトルとチョコレートを押し付ける。 「遭難時の危機回避マニュアルその3、行動食は常備し、飲料水も確保する」 「・・・遭難なんてしてないもん」 「森の中で迷うのは立派な遭難だぜ?とにかく、朝から何も食ってねぇんだろ?それでも食いながら見てろ」 見てろ、って何を?と蘭が頭にハテナを浮かべていると、新一は馬から下りて、草を掻き分け始めた。 (あ・・・ここ・・・) 昨日と同じ、ハートベルの上からの景色だから分かる。 ここは、蘭が落馬した場所。 「やだっ!ちょっとっ、自分で探すよっ!」 膝をついて本格的に探し始める新一に、蘭が慌てて下りようとすると、「オメェはこれ以上動くんじゃねぇ」と、厳しい声がぴしゃりと返ってきた。 「安心しろよ。失せモノ探しは探偵の本業。蘭のこともちゃんと見つけてやっただろ?」 「でも・・・」 「姫〜、俺のお姫様、降ろすなよ〜」 新一の言葉が通じたのか、ハートベルが、その場で軽く足踏みをする。 (大体、あんな短パンで山に入るか?虫に刺されるじゃねぇか) 頭の中で文句を言いながら、草を掻き分ける新一を馬の上から見下ろしながら、蘭は赤面して固まっていた。 『俺のお姫様、降ろすなよ?』 まったく、とんでもないことをさらりと言ってくれる。おかげで、色々と思いだしてしまったではないか。 『虫の知らせ』 つまり、ぶっきらぼうだったが、蘭の危機を察知して、仕事を放置して迎えに来てくれたということだ。 ・・・嬉しすぎて、顔が上げられない。 「お、あったぜ?」 探し始めて、30分。新一がそう言って、藪の中から何かをつまみ上げて振り返った。汚れた手で汗を拭ったからか、顔にまで泥がついている。 泥だらけの顔に、誇らしげな笑みを浮かべて。 イタズラっぽい瞳が蘭を捉える。 いつだって頼りになる、背中。 いつまでも、追いかけていたい。 この思いは、幼い頃から変わっていない。 きっとこれからも変わらない。 新一の汚れた手の上に光るイヤリングをそっと受け取る。 それも汚れていたが、新一が、少し慌てたように止めるのも構わず耳につけた。 「ねぇ、こらからも、ずっと追いかけてていい?」 「バーロォ、いっつもオメェを探して追いかけてるのは俺だろうが。目ぇ離すとすぐ居なくなりやがって」 「なによっ、自分こそ事件があると、すぐにどっか行っちゃうくせにっ!・・・きゃっ」 「うわっ」 新一のほうへ身を乗り出すような体制だった蘭が、バランスを崩して、鞍から滑り落ちた。 慌ててそれを抱きとめる、新一。 沈黙。 鳥のさえずりだけが、聞こえる。 「それでも、帰ってくるのは蘭の所だけだ」 「・・・うん」 お互いを見詰め合う瞳が、真剣なものになって。 距離が近くなる。 再び沈黙。 でも、もう、何も聞こえない。 次にお互いの顔を見たとき、二人はとうとう噴出した。 「新一、すごい顔っ」 「オメェもなっ!」 しばらく笑いあった二人だが、やがて、新一が怪我をした手を汚したことに気づいた蘭が、雑菌が入ると慌てて新一を牧場に急き立て。牧場に着いたと思ったら、無事な蘭を見て、牧場全体(と、いうか、近所の牧場のスタッフも、蘭捜索に加わっていて、すごい人数が母屋に集まっていた)が盛り上がり。蘭の無事と子牛の誕生を祝って早めの夕食を食べる頃、新一に優作と組井から電話が入り、新一があわてて対応して。新一と蘭の杞憂はさらさらと流されて、とうとう夜になり、お互い疲れたのか、離れていた間の悩みはどこへやら、仲良く並んで眠ったということだ。 ちなみに、旅行に持ってきたはいいが、すっかり渡すタイミングを逃した指輪は、その後も新一の手によって保管され、20歳になった夏に、再びここ、北海道で渡されることになる。 「お?見ろよっ、蘭の尻の痕が、まだくっきり残ってるぜ?」 可哀想に、よっぽどの圧力だったんだな、と、日高自然の家キャンプ場に隣接した林の中で、2年前に蘭が落馬した地点を指差して、新一は笑った。 「なっ、なにもないじゃないのよっ」 「イヤリングだと、また失くして気づかないなんて事になりかねないから、コレやるよっ」 そんな言葉と共に渡されたのは、ダイヤモンドの、エンゲージリング。 「えっ?」 「空手で電柱折ったときにも壊れないように、一番硬い宝石にしてやったぜ?」 さて、この直後、キャンプに来ていた人間が、不思議な音を聞いたという。それは、木の折れるような音だったとも、人の骨が折れるような音だったとも言われているが、プロポーズがどうなったかは、日高の大自然のみが知っている。 |