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Silent motion

広げた手のひらの中に残った、最後のもの

― Happy Biethday dear Ran ―




「じゃあ言うけど・・・」

その後に続いた蘭の言葉に、新一は己の耳を疑った。
いや、疑いたかった。



「・・・・う、ごはっ、げほごほっ」
「ちょっ・・・なにやってんのよ、新一!」

蘭から告げられた事実が脳に到達した直後、新一は盛大に咽こんだ。
勢い余って吹きこぼしたお茶が、白いTシャツにも被害を及ぼしていく。
蘭が差し出してくれたハンカチで顔と手を拭い、深呼吸をひとつして。
ようやく、ふぅ、と大きく胸を撫で下ろせると思った、その矢先。

「これ、すぐ洗わないと、染みになっちゃう」

咳き込む新一の背中を摩っていた蘭の華奢な左手が、新一のTシャツの裾を掴んでいる。
今にも捲り上げそうなその勢いに、ちょっと待て!と新一は慌てて蘭を制止する。
もし蘭が右手を負傷していなければ、このままTシャツだけ剥ぎ取られていたかもしれない。
最も、現在の蘭は、痛々しくも三角巾で右手を吊っている状態であり。
そう処置した自分自身を、誉めてやりたいと新一は思った。

「と、とにかく。蘭はジッとしてろ」
「大丈夫よ。新一の手当てのおかげで、痛みもかなり収まってきたし。これくらいは・・・」
「いいから座っとけって。な?」

新一は蘭の両肩に手を置き、立ち上がりかけた彼女をそのまま座らせた。
仮に、もしこの場でTシャツを脱いでも、恥ずかしいとかそういう気持ちは一切ないが、でも。
今日この日、このシチュエーションは、ちょっといただけない。
詳細を自己分析するまでも無く、やるなら今この瞬間は避けるべきだ、と本能が訴えている。
探偵としては腑に落ちなくとも、こういう警鐘は無条件に信じておいて損はない。
幼馴染みとして培ってきた長年の経験と、偽りの姿でいた間に備わった感覚が、新一にそう判断させた。

蘭は、「変な新一」と言いながらも、素直にソファへと逆戻りした。
どことなく新一がおかしい、ということは察知しているようだ。
それでも、彼の内部で起こっていた小さな嵐の正体には、これ以上言及してこない。
新一自身、自分でも良く分かっていない、正体不明のボロを自らひけらかすような真似はしないでおこう、と思う。
そのほうが都合が良い。
まず今は・・・

『落ち着け、落ち着くんだ。』
そんな呪文が、新一の頭の中をぐるぐる回っていた。



一方。
パタパタと塗れたTシャツを拭く新一の傍らで、蘭は小首を傾げていた。
変というか、新一らしくない、というべきか。
幼い頃からずっと、新一は物事にはあまり動じないタイプなのだと、蘭はずっと思ってきた。
それなのに、油切れの機械みたいな、何処かぎこちない言動を取る新一。
滅多にない彼の様子に、でも何故か既視感(デジャビュ)を感じて、つい凝視してしまう。

「・・・蘭?」
「え?あ、なんでもない。ほら、早く着替えてこないと!」
「ああ。じゃ、ちょっと待ってろ」

新一が声を掛けると、即座にいつもの蘭の瞳――くるくると良く動く、吸い込まれてしまいそうに透き通った――に戻ったが。
大粒の瞳が、どこか遠くを見つめてさまよっている。

少なくとも、新一にはそう見えた。



* * * * *



自室を経由して新一が向かった先は、ランドリールーム。
汚れたシャツを脱ぎ、そのまま水を張ったシンクでバシャバシャ勢い良く洗った。
水洗いだけでは不完全だが、とりあえずの応急処置としては事足りる。
このまま漂白剤にでも浸けておけば、問題ないだろう。

ボトルの表示も読まず、適当な分量の漂白剤をトポトポと注ぎ入れる。
指先で軽くかき回せば、はいお終い。


それにしても。

「・・・あー、ビックリした。オレ、そんなことしてたんだ」

今この場が完全な密室なのを幸いに、抑え切れなかった衝撃が声に出てしまった。
が・・・・・・・・・・・・ちょっと後悔。
折角、一旦気を静めようと思って、新一は蘭から離れたはずなのに。
気恥ずかしさが倍増してしまっている。


(ていうか、舐めるって、なんだよオレ?!
 んなことするくらいなら、キスのほうがよっぽどマシだろ?)


顔だけだったほてりが、全身へと広がっていく。

どうしてそういう経緯を辿ってしまったのか。
冷静さを取り戻す意味でも、一度振り返ってみようと新一は思う。



世の中、ゴールデン・ウィークというやつで。
けれども、そんなことはお構い無しに、事件は発生する。
いやむしろそういう時期のほうが、犯罪発生率は高いかもしれない。
でも、折角の連休なんだから、と新一なりに少しでも空き時間を・・・蘭と一緒に過ごせる時間を捻出できるように、と努力を重ねて。
・・・頑張りすぎた結果、蓄積された疲労に負けてしまい、ソファで寝落ち。

最初は、ちょっと仮眠をとるだけ、のつもりでいたのに。
いつしかそれが、深いものに変ってしまったのだ。

(なんか、途中ですごく良い匂いがしてきて・・・あれは夢?)

蘭との休日の過ごし方を、睡眠と覚醒の狭間で脳内展開させていたのだが。
いつしか、夢と脳内シミュレーションがごちゃ混ぜになっていた・・・のか?

手にした着替えに袖も通さず、フル回転で巻き戻す、記憶。
あのとき確か・・・



* * * * *



一方、リビングに残された蘭は―――

自室へ向かう新一の背中が、廊下へ続くドアの向こうへ消えたのを見届けて。
蘭は、既視感の正体に気付いた。

両手を目一杯に広げて、全身で、懸命に訴えかけてくる、真っ直ぐな気持ち。
ひとりで抱え込むにはあまりにも重い、真実という名の重圧に耐え続けていた背中。
ガラス越しの視線。
・・・・いつも傍にいてくれた、小さなナイト。

お互いに、成長の過程で少しずつ体格差が生まれ、知識も増えた。
それなのに、気持ちを言葉にするスキルは、逆にどんどん目減りしていく。
勿論、望んだことでは無いけれど。

新一は、一歩間違えれば命を落とすところだったが、一時的に年齢を退行させた。
それが元で、新一は失っていたそのスキルを、取り戻したのかもしれない。
帰ってきた新一は、身長も少し伸びたようだけど、それ以上に大きな存在となって蘭の前に現れた。
大切な気持ちと言葉を、携えて。

思えばそれが、新一の真の姿だったのかもしれない。
わたしは・・・・少しは変わった、のかな?
変われたかな?



ふと時計を見れば、新一が席を立ってから、既に10分以上経過している。
着替えるだけのはずなのに、どうしたんだろう?
まさか、また事件・・・?

「新一・・・」


呟きよりも早く、蘭は立ち上がった。



* * * * *



「・・・新一っ?!」
「うわ、ちょ・・・蘭?!」
「いた・・・・良かった」

勢い良くランドリールームのドアが開いた瞬間。
己の記憶と回想の狭間を漂っていた新一の全意識は、一挙にドアのその先へと方向転換した。
その出で立ちは、いまだにシャツを手に掴んだままという、なんとも中途半端な状態で。
誰もが「まだ着替えていなかったのか」と思わずにはいられないだろう。
しかし、部屋の中央で突っ立っていた彼の前に現れた蘭は、何も言わない。
慌ててここへ駆け込んできたらしく、軽く息さえ上がっている。

「蘭、何かあった?もしかして腕が痛むのか?」

最初はただ驚いて振り向いた新一だが、彼女の只事ではない雰囲気を感じ、己の格好も忘れて蘭の元へ駆け寄った。
蘭は、う、と唇を引き結び、ふるふると首を振った。
その都度、長く伸ばされた艶やかな髪が、サラリと肩から零れる。
外見上、蘭自身には異状がないようだ。
その点は安心できたのだが、明らかに様子が変だ。
まずは蘭を落ち着かせるように、努めて平静を装った声で、新一は尋ねた。

「そんな慌てて、どうしたんだよ?」
「だって、新一、部屋にも書斎にも、どこにもいなくて・・・」
「オレ?いや、だから、着替えを・・・」
「またどこか行っちゃったかと思ったじゃない!」

言い終えぬうちに、戸口でへたりこんでしまった蘭。
漆黒の瞳はゆらゆらと定まらず、今にも零れ落ちそうに見開かれている。

(やっぱり、オレの気のせいじゃなかった)

蘭の目線に合わせて屈み込んだ新一は、今度は間違いなく掴み取った。
つい先程感じた、蘭の瞳の奥に潜んでいたものを。



黒の組織を潰し、工藤新一として蘭のところへ帰る。

それが新一の果たすべき目的、成すべき約束だった。
探偵として、何よりも人として独りよがりだった過去の自分自身に決別し、いろんな人の手を借りて実行もさせた。
しかし、それですべてが元通り、というわけではなかったのだ。

蘭はハッキリと言った・・・「また」と。
つまりそれは、まだ・・・。


新一は、蘭の瞳を見つめた。
蘭の中にあるどんなに些細な迷いも、揺れも、逃さないように。
真正面から、己の気持ちをぶつけられるように。
そして―――できる限り全力で、でもできる限り優しく、蘭を包むように。
その両腕の中に、大切な存在を閉じ込めて、言った。

「信じさせてやれなくて、ゴメン」
「わたし、別にそんなんじゃ・・・」
「じゃ、これは?」

そう言った新一が丁度手にしていた、着替えるはずだったシャツで、そっと拭ってくれたから。
蘭は、自分自身が泣いてることに気付かされた。

「あれ、やだ。なんで?」

ほろほろと零れてくる雫を、ゴメン、と繰り返しながら新一が拭う。
何度も何度も。

確かに新一は、戻ってきた。蘭のところへ。
蘭には怒鳴られたり、心配もされたりしたが、嬉し泣きもされたし、安心もさせてやれたと思う。
それでも、彼女の心に一度芽生えてしまった、失うことへの恐怖感は深く根を下ろしており、簡単には蘭の中からは消えてくれない。
だから新一は、繰り返し、言うしかないのだ。
蘭が納得するまで、何度でも。

「どこにいても、何をしていても、オレは蘭の元に帰ってくる。これは絶対だ」

だから心配すんな、と蘭の髪を撫でながら新一は断言する。
揺れる漆黒の瞳を、がっしり捕らえて。

「蘭に黙っていなくなるようなことは、しない」

ぎゅ、と少しだけ新一の腕に力が加わる。
それはごくわずかな力加減だったが、蘭の心を縛っていた目に見えぬ鎖を砕くのには、十分な威力があった。
うん、と静かに、だが力強く頷く蘭の、鼓動がダイレクトに伝わってくる。

探偵を続ける限り、これからも多少の危ない目には遭うだろう。
蘭に心配をかけてしまうことも、ゼロにはならないと思う。でも。
己の命を省みないような、無鉄砲なことはしない。

蘭を悲しませることだけは、もうしたくない。

「だから・・・・・・・・・っくしゅ」
「え・・・あ。きゃあぁぁっ!」

くしゃみをした拍子に響く、本日2回目の、蘭の叫び声。
ドンっと蘭に突き放されて、新一は己の置かれていた立場を思い出した。

(えーっと、さっきよりも更に、状況は悪化・・・いやむしろ、進化?
いやいや、ちょっと待て、オレ)

顔どころか、体全身に熱を感じて、新一はよろめいた。
なんでこんなことになってんだ?と思い起こそうとするのに、どこかの回路が焼き切れたみたいで、考えがまとまらない。
しかし、この熱はもっと何か別の・・・・・



* * * * *



「大丈夫?」
「あー、うん。悪いな」
「わたしの所為、だよね?」
「蘭の所為じゃねーって。あんなところでボーっとしてたオレが悪い」
「でも・・・」

ピピピっと電子音が鳴り、表示された数値に、蘭は眉根を寄せる。
38.9度。誰がどう見ても立派に病人だ。

室内とはいえ、5月上旬のこの時期は、夜間はまだまだ肌寒い。
それなのに、それなりに長い間、上半身裸でいた結果―――溜まっていた疲労も災いしたのか、新一の体は発熱という形で悲鳴を上げた。
ランドリールームの床に崩れ落ちる、という情けないオチ付きで。
蘭は渋る新一を無理矢理に説得し、痛む右腕を押して半身を支えながらも部屋まで連れて行った。
勿論、着替えは済ませてからだが。



ほとんど動かせない右腕と華奢な左腕だけで、蘭は器用に新一の看病をしている。
本来なら、もう蘭を送り届けなければならない頃合なのに、いくら大丈夫だと新一が言い張っても、蘭は聞く耳を持たない。
三角巾で吊るされた右腕を誇示して、にっこりと微笑むだけ。
その横顔には、しっかりと「お互い様」と書いてある。
この際、ついでだから言わせてもらうけど、と溜め息混じりに蘭は続けた。

「わたし、いつも言ってるよね?寝るならちゃんとベッドで、って」
「あー、うん。それは・・・あはははは」
「あはは、じゃない!わたし、ホントに心配したのよ」
「それは・・・・ゴメン」

チラッと見上げた黒髪の天使は、努めて厳しい表情を作ろうとしていたけれど。
そのふっくらとした唇から零れた溜め息は、穏やに新一の前髪を揺らした。

「新一ってば案外、体弱いところあるんだから」
「こんなの、ひと晩寝ればすぐ治るって。だから明日はさ・・・」
「明日も明後日もずっと、寝てなくちゃダメ。イヤでも何でも、大人しくしていてもらいます。いいわね?」

蘭からは、反論の余地も与えられないほどに、ピシャリと言われて。
新一は、うんと頷くしかなかった。



蘭に余計に心配させてしまうから、と新一は心の中だけに溜め息を零した。
熱というものは、数値としてハッキリ告げられると、急に上昇するように感じられるのだから、性質が悪い。
一度肯定してしまうと、自分自身の熱っぽい呼気も、簡単には抑えられなくなってくる。
体力には結構自信があったのに、と新一は思ったが、口にするのは控えた。
この状況ではあまりにも説得力に欠けるだろう。
まったく、新一にとっては、笑うに笑えない話である。

(夕方からの突拍子もない行動は、もしかしてコレが原因だったのでは?)

などと、つまらない推測を立てるくらいに、新一は参っていた。
ここは意地を張らず、大人しく横になっているしかない。
結局はそれが、新一にとっても蘭にとっても一番良い選択肢、ということになる。
もしこのまま熱が下がらなければ、きっと蘭は徹夜も辞さないだろう。
新一が仮の姿でいたときも、そうだったから。

それにつけても・・・・・

「あーあ。とんだ誕生日になったな」

力なく苦笑する新一の額を、そんなことないよ、と蘭の華奢な手が覆う。
今年は一緒にいられたから、と穏やかに微笑んで言う。

普通の恋人同士なら簡単にクリアできる、難易度1の障害。
新一と蘭には、それこそが一番の難問になる。
眠れぬ夜を幾度となく過ごしてきた、あの日々があったからこそ、今この瞬間が、空間が、どうしようもなく愛おしく感じる。
大切なのだ、と素直に感じる。
あれは、自分自身の気持ちに正直になるための、プロセスだったのかもしれない。
少なくとも、新一にとっては。

蘭の手をやんわりと捕まえて、新一はありったけの気持ちを込めて、言った。

「ありがとな」
「どういたしまして」

予兆もなく不意に。
早く良くなりますように、と新一の額に落とされた蘭のおまじない。
それはむしろ逆効果だということを、新一は言えなかった。



* * * * *



10日後。つまりそれは、蘭の誕生日。
妙にソワソワしてしまう心を、どうやって抑えようか?
稀代の名探偵ともあろう新一は、遠足前日の小学生のような気持ちでこの日を迎えていた。



『今度はオレが、蘭のために誕生日ケーキを作る!』

己の誕生日翌朝、平熱を取り戻した新一は、開口一番に蘭にそう宣言した。
体調不良が一因だったとはいえ、折角祝いに来てくれた蘭に迷惑を掛け、散々な誕生日としてしまったのは、他ならぬ新一自身。
半分徹夜状態で看病してくれた蘭のため、プラス自分自身に対する仕切り直しのために、と持ち掛けた新一の提案に、最初、蘭はあまり良い顔をしなかった。
新一のためのケーキを、最後まで自力で仕上げられなかったことが、残念でしかたがない、と心底悔やしそうに眉根を寄せる。
その気持ちもわかるが、新一が自らのリベンジを果たすには、この日が最も相応しい。
むむむ、と顎に手を当てたいつものスタイルで考えた挙句・・・それじゃあ、と付け加えた条件で、渋る蘭を納得させた。
無論、「手伝おうか?」という蘭の優しい申し出は、丁重にお断りして。



確固たる決意で、新一は初めての菓子製作に挑むことにした。
レシピや材料、その他諸々は、ネットで調べればすぐに調達可能だ。
試作もこっそり重ねて、あとは本番に挑むのみ、となっていた。

必ず連休と重なる新一の誕生日と違い、蘭の誕生日は平日になる。
蘭なら、当日に下校してから用意しも十分間に合うのだろうが、新一はまったくの素人。
お世辞にも、手際が良いとは言えない。
けれども、前夜のうちに下準備をしておけば、当日は帰宅後すぐに作業を進められる。
関係各所には、今日は一切の対応はできない、と先手を打っておいた。
何も問題はない。

「じゃ、またあとでな!」と蘭よりも早く教室を出て、一目散に帰途に着いた。
蘭は部活があるから、帰宅は日が暮れる頃になる。よし、十分間に合う。

広いキッチンで、新一は人知れずグッと拳を握った。






夕闇迫る時刻、約束どおりに蘭は工藤邸を訪ねた。
律儀に呼び鈴を押したが、応答がない。
もしかして、キッチンで格闘中なのかも?などと、微笑ましい想像が蘭の脳裡を掠める。
小さく笑いながらも、お邪魔します、とこれまた律儀に断りを入れて、蘭は合鍵を使った。

「しんいちー、いるの?」

蘭は、リビング、寝室、書斎、と広い邸内を順に見て回る。
幼い頃、一緒に遊んだ、かくれんぼのようだ。
いつだって新一は、蘭がどんなに知恵を絞って隠れても、必ず蘭を見つけ出した。
それは今でも変わらない。
いつでも蘭は、新一に捕まっている―――否、引き寄せられてしまう。



名を呼びながら、蘭が最後に訪れたのは、キッチン。
小さくノックしてから、人の気配がするドアの向こうからの返事を待たず、ドアを開けた。

「よう、蘭。今ちょうど・・・」
「あああ!」

得意げに片手を上げ、振り向いて訪問者を受け入れた新一の声は、悲鳴に近い蘭の甲高い声で遮られた。
蘭は、真ん円の目をひと回り大きくして、完治した右手の人差し指をビシッとケーキに向けたまま、棒立ちになっている。

「なんだよ、いきなり。ビックリして折角のケーキ、台無しにするところだったぞ」

新一はオーバーアクション気味に、ひゅうぅ、と額の冷や汗を拭ってみせた。
実際には、汗などかいてもいなかったのだが。

「・・・・・・・・新一の、バカ」
「え・・・・あ!」

俯き加減に呟く、蘭。
緻密な作業の締め括り、と息を詰めていた新一は、最初、蘭の行為の意味が掴めなかった。
が、すぐに理解して、後悔した。

ドアを開けるのと同時に、蘭の視界に飛び込んできたのは。
腕まくりをした新一が、最後の仕上げである、チョコレートでできたメッセージプレートをケーキの中央に置いている、ちょうどその姿。
あまりにも一生懸命になりすぎて、新一はすっかり失念してしまっていたのだ。

『最後の仕上げは、わたしにさせてね?』

妥協案として蘭から提示された条件に、OKを出したのは新一。
それを自ら破ってしまった。

気まずい空気が2人の間を・・・正確には新一の心の中をピンポイントで、ぴゅうぅっと拭き抜けたような気がした。




「ゴメン」

新一は、長い手足を折り曲げるように、テーブル脇の椅子に小さく座った。
この青年が「日本警察の救世主」として紙面を賑わわせた人物なのだ、と一体誰が思うだろうか。
蘭が何を言い出すのか、最後の審判を待ち受けるかのように、ビクビクと待ち構えている。
ガックリと肩を落としたその様子は、叱られて落ち込む小学生のようだ。
推理時の堂々とした態度とは一転、新一はもそもそと言葉を紡ぐ。

「すっかり夢中になっちまって・・・ホントにゴメン!」

長めの前髪にはパウダーシュガーが、腕や頬には飛び散った生クリームが付いたまま。
新一がどれほど作業に集中し、夢中で取り組んでいたのか、一見すれば蘭でなくともわかる。

ふふふ、としょぼくれる名探偵に笑い掛けると、蘭は手近な椅子を引き寄せて、新一に目線を合わせて座る。
伺うように蘭を見つめ返した新一の前髪から、白い粉がパラパラと舞い落ちた。
蘭は、撫でるように丁寧に、それを払ってやる。

「気にしないでいいってば。ちょっと、拗ねてみただけだから」
「良くねーだろ。オレ、ちゃんと約束したのに・・・」
「大丈夫、ちゃんとわかってる。ありがとね」

眩しいくらいの笑顔でお礼まで言われて、新一はますます恐縮した。
事件にしろなんにしろ、目的に向かって、ただまっしぐらに進めば良いというものではないのに。
偽りの日々を経て、それなりにいろんな経験を積んだ、積めたと思ったが。
実際には何も身についていなかったのだろうか?

ぐるぐる巡る新一の思考を、やんわり抑えたのは。
蘭の気持ちが滲む、優しい調べ。

「正直に言うと、ちょっとだけ悔しかったの。新一ばっかり、完璧なんだもん」
「どこが?」
「探偵やってるときは勿論そうだけど、ケーキだって全部1人で仕上げちゃうし」
「全然そんなことねーだろ。探偵としては、まだまだ父さんには敵わないし。
ケーキだって、いつも蘭が作ってくれるヤツのほうが、よっぽどすげーと思うぜ、オレは」

それに、とひと呼吸おいて、新一は続けた。

「オレが完璧だったことなんて、一度もないよ。特に蘭、オメーに関しては、な」
「・・・・そうなの?」
「そうなの!だからこれでいーんだよ」

続いて、背を向けながら「紅茶淹れるから座って待ってろ」と言った新一の顔はきっと、赤いのだろう。
そんなことを思って、蘭は肩越しに新一を見つめた。
言っていることが、支離滅裂だ。
探偵としての彼しか知らない者が、今の新一の言動を見れば、まったくの別人だと感じるかもしれない。
(気障なくせに照れ屋なところは、変わりようが無かったみたいね)
ついつい、そんなふうに思ってしまって、蘭の心は丸くなった。



「ケーキがあるから、今日はストレートで良いよな?」

と蘭の嗜好を読んだ新一が、それに見合った茶葉を戸棚から出し、慣れた手つきで茶器を扱う。
真剣な目つきの横顔を、頬杖を付いて見守る蘭の瞳の端に、小さく星が瞬いたのを。
流石の新一でも、察知できなかった。
蘭は、何か妙案を思いついたように、言葉を出す。

「あ。最後の仕上げ発見」

蘭の手作り菓子には遠く及ばなくとも、新一としてはそれなりのものを作り上げたという、微かな自信を持ったのだが。
普段から菓子作りに慣れ親しんでいる者の目には、不出来に見えるのかもしれない。
こうなるともう、探偵としての探究心がむくむくと湧いてくる。
新一が、何か足りないものがあったのか?と紅茶をサーブしながら、蘭の顔色を伺うように近寄っていくと。


ぺろん。


「ら・・・・・・・・・ん?!」

ぷしゅうぅうぅ〜。
ケーキに飾られた苺よりも赤く染まった新一の顔からは、蒸気の漏れる音が聞こえてきそうだ。
何が起こったのか、新一の優秀な頭脳でも咄嗟に判断できなかった。
それでも少しずつ認識が高まってくるほど、鼓動は滅茶苦茶になってくる。
丁度手にしていた淹れたての紅茶を零さなかったのは、持ち前の運動神経の成せる業かもしれない。

「はい、これで完成♪」

えへへ、と笑う目の前の天使の笑顔は、いつでも新一の心を照らしてくれる。
が、今回は与えられた衝撃のほうが大きくて、新一としては、両手を挙げて白旗を振りたいくらいだった。

薄っすらと頬を掠めた蘭の、柔らかなその唇は。
撫でる程度にしか新一には触れなかったが、確かな感触を新一に残した。
先日、部位は違うが同じことを(しかも無意識に)してしまったので、新一としては言葉も出せなかった。
でも。
瞳を閉じてプレゼントを待っている、この地球上で一番大切な存在には。
ありったけの想いを込めて、応えていきたいと思う。


そんな誓いを新たにした5月の夕闇には、2人を見守るようにそっと。
一番星が輝いていた。


− E N D −


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長らくお待たせ致しました(←極一部の皆さんへv)
当初、後日談的な続きをちょろっと・・・と予定していたんですが、あれよあれよという間に、どんどん長くなっていきまして。
結局、アップするまでに1ヶ月も掛かっちゃいました。

実はコレ、思いのほか難産で。書いたり消したり、足したり削ったり、の連続でした。しかも、私にしては珍しく、PCに触れない日さえもあったりして。
ともかく、ENDマークを付けられて、ホッとしました。
少しでも楽しんでもらえたら、嬉しいな♪

そして、激しく遅くなったけど、今年もハピバv蘭ちゃん

2008/May/14 には間に合わず、June/14


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