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one with what is

〜 あるがままに、そのままに 〜  part 5

苦しい。

息も鼓動も、やけに不自然なリズムを刻んでいる。
頭の中も心の中もぐちゃぐちゃで、どこを向いているのか、自分でもわからない。
時折ぎゅっと胸が苦しくなる事以外は、暑いのか寒いのか、蘭にはそれさえ感じられなくなっていた。



真っ暗な闇の中に、勝ち気だけど憎めないあの笑顔が、浮かんでは消える。

ああ、きっとこれは夢。だからこんなに、何もかもごちゃ混ぜになってるんだ。
だったら、何でも言っていいんだよね?

わずかに残った全身の力を集結して、蘭は、ずっと言いたくて言えなかった言葉をこぼした。



「・・・・いかないで」


そして、再び暗闇が音もなく蘭を包み込んでいった。


***


「ったく、こんなうわ言を言わせるなんて。もう頭に来た! 今度こそ新一君の事、許さないんだから」

鈴木家のハイヤーの中、対面式の広い後部座席にぐったりとした蘭を横たえ、その正面に園子と橋口が並んで座っていた。

「橋口君、良く電話してきてくれたわ。有難う。大変だったでしょ?」
「いや、オレは全然。大晦日のこんな時間じゃ医者も開いてないし、かと言ってオレん家に連れて行く訳にもいかねぇからさ。それに倒れちまう前、今夜は帰れねぇ、とか言ってたし」
「終業式のときにね、この年末は両親を二人っきりにしてあげるんだ、なーんて言ってたのよ、この子」
「それで『帰れない』なのか。毛利らしいな」
「でしょ? 他人の事ばっかり気にかけてさ、自分自身はこんなに参っちゃってるのにね」

小学校の頃からの同級生である橋口も、毛利家の家庭事情の概要は知っていた。当人達が黙っていても、そういった話題は隣近所には自然と流れてしまうものだ。
そして、二人の復縁を蘭が娘として強く願っていた事も、自分自身も母親と離れ離れになってしまった橋口にはわかるつもりでいた。


発熱に伴う発汗から蘭の額にはうっすらと汗が滲み、前髪が数束張り付いている。肩で呼吸をする程、息も荒い。

「人の心配する前に、まずは自分の心配もしなきゃ駄目よ、蘭?こんなになるまで無理しちゃって、、、」

ハンカチで蘭の額を拭ってやっている園子の声は、ほんの少し揺れているように聞こえた。
口先では、つい新一を責めてしまったのだが、その実、自分自身を責めたててもいた。

勉強勉強、と一人で騒いで焦って、ろくに蘭の話を聞かなかったのではないか?
そもそも、話すきっかけ自体を掴ませないようにしていたのではないか?
自分の事になると貝のように押し黙ってしまう、遠慮深さ断トツ1位爆走中の親友のことを、ずっと傍で見て来たつもりが実は全然わかっていなかったのではないか?

はっ、とすぐ隣に橋口がいることを思い出し、普段の自分らしくない所を見られた決まり悪さから逃れようと、園子は着ていたジャケットをそっと蘭の体に掛けてやった。
すかさず、橋口の言葉が園子の背中に降り掛かる。

「しっかりしろよ、鈴木。オメエまでぶっ倒れたら、誰が毛利の面倒見てやんだよ? な?」
「あら、言ってくれるわね? でも、完全看護できる環境は整ってるから、心配無用よ!」
「さっすが鈴木家。じゃ、あとは任せたぜ?」
「OK。もし少しでも具合悪くなったら、遠慮なんかしないでいつでも連絡してきてよ? なんたって橋口君は蘭の恩人なんだからさ。わかった?」
「サンキュー、そんときゃ頼むわ。あ、オレんちこの辺だから、適当な所で降ろしてくれねぇか?」
「、、、っと、その前にお願いがあるのよ、橋口君」
「工藤にはこのこと言うな、だろ? じゃ、始業式にな!」

園子は窓越しで「ありがとねっ。良いお年を!」と妙に聡い橋口に伝えると、少し落とされた肩と背中を数秒間見送った。
再び蘭のほうへ目線を戻すと、はぁ、とひとつため息が溢れた。

(コヤツ、報われないこと自分でわかってんだよねぇ、きっと)

既に見えなくなってしまった橋口の背中を思い出しては、複雑な気持ちをなかなか押さえることが出来なかった。
世の中にはこんな好青年も転がってるのに、何でよりによってあんな推理オタクじゃないとだめなのよ、蘭。
これじゃ、自ら進んでイバラの道を歩むようなもんじゃない!

ますます呼吸が浅く早くなって来た親友の姿を見つめながら、とりあえず蘭の両親にだけは連絡を入れておく。
「始業式までうちの別荘で過ごすから、蘭のことは心配いらないわ。たまには夫婦水入らずでどうぞごゆっくり。じゃ、また来年!」と、電話をとった小五郎に反撃を喰らう前に、一方的に会話を遮断し、続いて蘭の鞄から携帯を取り出した。

沈黙を守ったままの液晶画面に対し、心中で思いっきり舌を出して電源をオフにする。
よしっ、と意を決して顔を上げた園子の瞳には、鋭い閃光が一瞬のうちに浮かんでは消えた。


再び発進したハイヤーは「車体を揺らさないよう、かつ超特急で家に戻って」という園子の指示通り、氷の上を滑るように見事なハンドルさばきを披露した運転手によって、程なく鈴木家に到着した。
鈴木家専属の女医・木村がお手伝いであり看護士の資格を持つ裕美子を伴い、寒い中を玄関先で待機してくれていた。一言お礼を言ってから 直ぐさまストレッチャーに蘭を横たえ、園子も一緒に診察室へと向かった。


***


(ん、、、何だろ? 頭がヒンヤリする)

冷たい感覚に気付き、ついで自分が横になっていることに蘭は気付いた。
まだぼんやりする視界の中でも、これが自宅の天井ではないことくらいはすぐにわかる。
控えめな間接照明が照らし出す室内には、どことなく見覚えがあるような気がしてならない。

ちょっとずらした視線の先に明るめの色のストレートボブが目に入ると、現在置かれている自分自身の状況を無理なく飲み込むことが出来た。
駅に向かう途中で強烈な目眩がしただけだと思ったけれど、きっとそのまま倒れてしまったんだ。
、、、っていうことは、あのとき一緒にいた橋口君は?
それから、、、、、。

くるくる回る思考回路とは逆に、起き上がろうにも全身の関節がだるく、体が重い。
ひどく喉が乾いており、上手く声も出せない。
もそもそと動きだそうとした蘭は「ああ、駄目よ、まだ起きちゃ」と制されて、意志とは逆にベッドに引き戻されてしまった。


一旦席を外した園子は、鈴木邸へ運び込まれた際に実施した血液検査の結果を報告するべく、木村医師とお手伝い兼看護士の裕美子を連れて客間へ戻って来た。
二人を蘭に紹介し、木村が血圧と脈拍を取りながら簡単な質疑応答を繰り返す。
診察結果と検査結果の数値を照らし合わせ、「やはりインフルエンザのようですね。1週間は絶対安静が必要だわ」との診断が下った。
緩くウェーブした長髪を束ね、白衣の下には軽やかな素材のスカートと首周りの広く開いたニットを合わせている木村は、キリッとした瞳が印象的な美人で、まだ歳若い様に見える。一方の裕美子は濃紺のワンピース姿だが、これは鈴木家の使用人としての制服なのかもしれない。木村とは対象的なやわらかい笑顔で、蘭の汗を拭い、点滴を新しい物に取り替える。

ひととおりの診察が終わった時点で、邪魔にならないように一歩下がって壁際にもたれ掛かっていた園子が、口を開いた。

「出来るだけ私が看病するようにしたいんだけど、ちょっと用事が立て込んでてね。だから、私がいないときには、このインターコムで裕美子さんを呼んでね。遠慮なんかしないのよ?わかった?」

ベッドサイドのナイトテーブルに設置された子機を指差して、その横の椅子に腰掛けた。
後片付けをしている裕美子も、口を添える。

「困ったことがあれば、いつでも何なりとお申し付けくださいね、蘭さん。木村先生も私も、邸内に常時待機しておりますから。」

では、お大事に、と退室していく背中に丁寧にお礼を言って、目線だけで二人を見送った。

ドアが閉まったのを確認した蘭の瞳が示す「少し話してもいい?」という意向に、「ほんとに少しだけだからね?」と念を押した園子が予備の枕を蘭の背に挟み、上半身を起こすのを手伝う。
手渡したスポーツドリンクで喉を潤しようやく一息ついた蘭に、まず園子が今までの経緯を説明していった。

橋口に連絡を受けて駅前まで蘭を迎えに行ったこと、インフルエンザが完治するまでは鈴木邸で静養する手筈が整っていること、蘭の両親に無用な心配を掛けさせないよう「旅行に行く」と言って連絡してあること。
そして、既に日付けが変わっていることも告げられた。

「始業式まで家でバッチリ看護するから、しばらくのんびりするといいわ。余計なことは一切考えずに、ね」

園子の言葉を受けて、大きな瞳が瞬時に見開かれ、次いで曇っていく。
余計なこととは、言わずと知れた新一のこと。



「あ、そうだ。蘭の携帯、修理に出しちゃったから、今ここにはないのよ」

短い沈黙のあと、急に思い出したように、ポン、と手を打って園子が報告する。
蘭をここへ搬送するときに誤って床に落としてしまい、壊れてしまった、と続ける。

「ううん、いいの。こっちこそ、いろいろ迷惑ばっかり掛けてゴメン。ほんとにわたしって、、、駄目だよね」

深い色の瞳に落とされた影が、また一層濃くなったようにみえる。加えて滲みそうな語尾を必死に隠していることも、園子には痛いくらいに伝わって来た。

ズシッと、心の片隅が重い。
照れながらも「これ、新一からのプレゼントなんだ」とこっそり教えてくれたその携帯を、一緒に付いて来た、正直言ってセンスの欠片も見られないようなストラップまで蘭はとても大事にしていたから。
心の中でこっそり詫びを入れつつ、今は病気を治すことが最優先なんだからね!と、さり気なく話題の鉾先を変えていく。

勿論「壊れた」等というのは真っ赤な嘘。
蘭の携帯は電源を切られたまま園子の手中にあり、自室にちゃんと保管してある。
おせっかいなのは十分承知の上だが、それでもこんなに思いつめた表情の親友を、黙って見守っているだけでは気がすまなくなってしまったのだ。
それに、蘭がこぼした昨夜のうわ言が、園子の気持ちを固めるのに一役買っていた。

ここはひとつ、ビシッと“お仕置き”をしてやるわ!
、、、と、類い稀なる聡明な頭脳の持ち主に、園子は人知れず挑戦状を叩き付けた。


熱は幾分下がったとはいえ、蘭の目線は力なくうつろに彷徨っている。
とにかく少し眠るといいわ、と再びベッドに横になるように促して、園子はそっと部屋を後にした。


***


園子の励まし、裕美子の献身的な看病と木村の適切な処置、病気治療に最適な鈴木邸の環境とが功を奏したのか、更に丸2日間をベッド上で過ごした頃、蘭の症状はどうにか落ち着き、食事も軽い物ならほぼ通常通りに摂れるようになった。

そうなると、ほとんど付きっきりで蘭の世話をしてくれている裕美子に対して余りにも申し訳なくなり、出来るだけ本来の持ち場に戻るように懇願した。この数カ月の間、新一が無事に卒業できるように、と自分の学業に加え家事をほぼ2件分こなしてきた蘭にとって、この「上げ膳据え膳状態」は脇をくすぐられるようなむず痒さを覚えずにはいられないのだ。
しかし「私がお傍にいると、かえって蘭さんにご迷惑をお掛けすることになるのでしょうか?」と裕美子に切り返されては、何も言えなくなってしまう。

西洋の古城を思わせる重厚な外観を持つ鈴木邸の屋敷には、桁外れに豪華な工藤邸の造りを見慣れている蘭でさえ、閉口するしかなかった。内装も高級ホテルのスイートルームを彷佛とさせるほど立派なもので、どこかの別世界に紛れ込んでしまったような錯覚を蘭に与える。
蘭にあてがわれた部屋には、その豪華な内装に反して電話もテレビもラジオもない。
あるのはCDプレーヤーと園子がセレクトしたものらしいポップスのCDが数枚、屋敷内を結んでいるインターコム、加湿器、ナイトテーブルと椅子のセットのみ。携帯は年末年始の休みが影響して修理も長引いているようで、まだ戻ってこないらしい。こうなってしまうと、蘭が外界の情報を得ることは実質不可能だった。

部屋には鍵が掛かっているわけではない。
けれど、鈴木家に仕える大勢の人々に病気を遷してしまうわけにはいかないから、と自主的に部屋から出ることを控えていた。鈴木家でお世話になっている間に蘭が接触できるのは、予防接種を済ませているという園子と木村、裕美子の3人だけだ。



正月の3が日が終わると、流石に順調に回復してきた蘭の看病だけをしている訳にもいかなくなったのか、裕美子は食事と診察の時間以外は蘭のもとを離れる事が多くなった。
木村は元々診察時以外に蘭のいる部屋へ来る事はなかったから、再び開始された勉強の合間を縫って様子を見に来てくれる園子以外、蘭の気を紛らわせてくれる者はいない。
ポッカリと空いてしまった時間は、引き続き大人しく病気療養に充てるより他に術はなく。
そのおかげで、蘭の病状は劇的に良くなっていった。

ここまで徹底的にやる事がないと、どうやったって考えてしまうのは、たったひとつ。
瞳を閉じれば、いつでも鮮明に浮かんで来る、あの笑顔の持ち主のこと。

大晦日の日、嬉々として駆け付けたはずの事件は、無事に解決したのだろうか?
新一のことだから心配はいらないんだろうけど、なにしろ情報が遮断されている状態なので、そんなことさえわからない。
それよりも蘭が気になるのは、終業式の日にうんざりした顔で新一が見せてくれた予定表。
卒業要件となっている特別補習は、3が日が明けてすぐに再開されているはずだから、寝坊しないようにちゃんと出席していてくれれば良いのだけど、、、。


何かしていないと、頭の中が新一のことだけで占拠されてしまいそうになる。
まだ体の芯に残る疲弊感には片目をつぶって、そっと起き出してベッドメイキングを手直しし始めたところ、まるで覗き見していたようなタイミングで、園子が蘭のいる部屋に顔を出した。
蘭をベッドに引き戻しながら、開口一番、ピシャリと言い放つ。

「だいたい蘭は、何にでも一生懸命すぎるんだから。たまには息抜きしなさいよね」
「だって、毎日寝てばかりで、逆に具合悪くなりそうなんだもん」
「病人なんだから、当たり前でしょ? ま、そんな減らず口を叩けるようなら、もう大丈夫そうね」
「じゃ、わたし、そろそろ、、、、」
「それは駄目! いくら症状がなくなったとしても、体内にはまだまだインフルエンザウィルスがいるんだって木村先生が言ってたんだから。もう少し安静にしてなくっちゃ」

言い終えぬうちに却下されて、蘭はじぃっと園子の瞳を見つめるしか術がなかった。
確かに、自分の不注意で他人をインフルエンザに感染させてしまうことは避けたい。
まして新一は受験を控えた身。いくら頭脳的に問題はなくても、体調不良ではその実力も発揮できやしない。ではせめて、始業式までには完治できるよう、今は完全回復をするほうに全力投球するしかないだろう。





更に2日が過ぎ去り、高校生活最後の始業式が翌日に控えていた。
これを機に帰宅しようと思っていた蘭の思惑は、適当に理由をでっち上げた園子が蘭の制服や鞄等の通学に必要な物を毛利家から運び込んできたため、外れてしまった。

結果、年末から丸1週間、蘭は新一の声すら聞いていないことになる。
こんなに長い間新一と離れているのは、例の『厄介な事件』の解決後には初めてのこと。


蘭からは連絡を取ることが出来なくても、逆に新一からは連絡して来ることは可能なはずだ。
木村や裕美子に新一のことを聞くわけにはいかないから、園子に「新一から何か連絡はない?」と聞いてみるのだが、その都度「余計なことは考えちゃ駄目って言ったでしょ?」と取り合ってもらえない。



とにかく。明日は待ちに待った、始業式。朝になれば、また会える。
この1週間、ベッドに横になることしかやることがなかった蘭には、時間だけはたっぷりあった。
新一に聞きたいこと、話したいことを考える時間が。

どうして年末の約束を守れなかったのか。
会えなかった日々を、新一がどのように過ごしてきたのか。
新一の口から、直接聞かせてほしい。そして、この胸の中で増長する不安を、消し去ってほしい。

細かい彫刻が施され、アーチ型の曲線の背もたれと絹布を張られた座面を持つ椅子を窓際に移動させると、細く作ったカーテンの隙間から、凍り付きそうに冷えきった夜空を見上げた。
蘭の滞在している部屋には、3つ並んだ十字の枠組みの窓があり、その中央には小さいながらもちょっとしたテラスが設えられている。外の様子を伺おうと園子の目を盗んで何度か窓辺に佇んでは、ここから見えるわけではないのに、自然と蘭の目線は工藤家の方角に向けられてしまっていた。

(新一、ちゃんとご飯食べてるのかなぁ、、、?)

いつでも無理を押し通してしまう新一のことが、心配でたまらない。
迷惑なのはわかっているけれど、つい口喧しく新一に接してしまうのは、そうでもしないと新一を普通の、高校生らしい日常生活に引き戻せないから。

この夜が明けたら、、、新一はどんな言葉をわたしに投げ掛けてくるのだろう。
気障で格好良くて減らず口だけど、でも、とびっきり優しい、あの笑顔を向けながら、いつものように「おはよう」って言って、ポンッと肩を叩いてくれる?
それとも、ずっと音沙汰なしだったわたしのことなんて、怒って無視を決め込まれるかな?

それとも、、、わたしのこと、少しは心配してくれてるのかな?



少しでも新一の近くにいたくて、そっと窓をすり抜け、ナイトガウンを羽織ってテラスの手摺に寄り掛かる。
冬の澄んだ夜空へ、吐き出された呼気が次々に吸い込まれていく。
呼気と一緒にわたしの気持ちだけでも届けば良いのにな。
そんな思いを胸に、もう一度大きく深呼吸しようとして、ゴホゴホッと、大きく咳き込んでしまった。久し振りに触れた冷たく乾燥した空気に刺激された喉から、立て続けに抗議の嵐を受ける。
折角ここまで回復してきたのに、今また風邪でもひいてしまったら、外へ出ることも出来なくなってしまう。慌てて室内へ戻り、窓の鍵を確かめる。更に分厚いカーテンをきっちりと締め直して、ベッドに潜り込もうと窓に背を向けた。




カサッ。
風もないはずなのに、窓のすぐ傍まで枝を広げている針葉樹の葉陰がわずかに揺れた。続いて遮光カーテン越しでも気が付くくらいに、何者かが音を立てている。
仮にもここは鈴木財閥の本邸なのだから、セキュリティシステムは万全に整えられおり、おまけに24時間常駐の警備員もいるのだ。これらの監視網を突破して、正面からではなくこの屋敷に近付ける人物となれば、その辺のこそ泥ではなく、相当に場数を踏んだプロの泥棒、もしくは何かの組織かグループか。
いずれにしても、蘭の背筋には緊張した冷たい物が伝っていく。

熱は下がったもののまだ本調子ではない蘭の体力は、素手の侵入者なら相手に出来る程には戻ってきていた。しかし、こういうシチュエーションでは、相手が素手である確率のほうが低いのだ。
出来るだけそっと窓際から遠ざかると、蘭の手はようやくベッド脇に置いていたインターコムの子機に届いた。壁際に寄り添いつつ小声で園子の部屋に通話しようとしたその瞬間、侵入者と思われるその人影は、何故か窓をノックしてきた。
しかも、丁寧に、5回連続で。

思い当たることがあって、蘭は再び注意深く窓に近寄った。だが、勘違いという路線も否定は出来ないので、右手ではインターコムのボタンに指を掛け、いつでも通話できる状態に準備しておく。
息を殺し、全身の神経を緊張させる。程なく、再度5回連続のノックの音がして、カーテン越しに浮かび上がるその人物のシルエットに、自分の予想が適中したことを悟った。ほうっと安堵の溜め息が溢れてくる。
蘭は子機を床に置くと、迷うことなくカーテンを開けた。

驚いた蘭の瞳に軽いウィンクを飛ばして、その侵入者は悠然とした表情で言葉を続ける。

「こんばんは、探偵キッドです」

月明かりに輪郭を縁取られた蘭専属の騎士(ナイト)は、慣れた手付きで銀色の細い工具を操ると、簡易なパズルでも解くようにカチッと外から鍵を開け、あっという間に部屋の中へ滑り込んできた。
蘭の手を取ると、恭しく一礼した新一が、ニカッと笑って囁いた。

「今宵はあなたのハートを頂きに参りました。大人しく、盗まれてくれますか?」

こんな時間と場所なのに、どういう訳で、またどうやってここまでやって来たのだろう?
この部屋は2階にあり、しかも一般の家屋よりも外部から侵入するのは容易ではないのだ。

深まるばかりの謎はそのままに、久し振りに聞けた大好きな声に、大好きな人の声に、蘭はただ新一の腕にしがみつくことしか出来なかった。
もう二度と、離してしまわないように。


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第5話です。前回から、すっかり季節も移り変わってしまいました。(><)
どこを間違えてこんなに長い話になったんだか(遠い目)。
キリリク小説で、またしても自己最長記録樹立、です。
この半年で、気合と気持ちが入りすぎて、少し書き進めてはやり直し、の連続でした。
(しかも、また終われなかったし、、、くすん)
hana様、本当に随分お待たせしてしまって申し訳有りません。
でも、まだまだ続くみたいです。もう暫く、お付き合いくださいませ。


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